100辞書・辞典一括検索

JLogos

18

峰上(中世)


 室町期から見える地名。上総国天羽郡のうち。富津【ふつつ】市小志駒の普賢寺所蔵永享3年8月25日の懸仏銘(県史料金石1)に「大貫・峰上・師子馬」と見える。また当地に城郭が構築されていたことは,富津市上後の石井博氏所蔵の天文2年9月3日の鰐口銘(同前)に「峰上之城 广利四天」とあることから確認できる。この峰上の城郭については「里見代々記」に文明3年頃真里谷道観入道が峰上領に「玉木の城と名つけ閇籠」ったが,里見義実によって攻略されたと見える。永正6年鎌倉に上陸して小田原北条氏と戦った里見実堯によって焼失した鶴岡八幡宮の造営が,北条氏綱によって天文元年以降計画されたことが「快元僧都記」(群書25)に見え,天文4年この造営に使われる材木の供給地として当地があてられたこと,翌年には数千人の人夫が派遣され材木を伐採したことなども見られる。しかし天文6年5月,里見義堯が真里谷氏の内訌に介入して北条氏と敵対して以来,義堯や周辺の「諸侍」が反対したため,北条氏は小弓御所義明や真里谷大学入道全方を介してこの材木伐採を進めた結果,ようやく天文6年7月には「峰上谷」より「佐貫浦」まで河出しし,鎌倉由井浜の鳥居際まで海送することができた。ところで富津市岩坂の八雲神社が所蔵する鰐口銘(県史料金石1)には,天文8年9月3日「上総国天羽郡嶺上註神前」に「大旦那諸□円満□□沙弥全芳」が寄進したことが見え,この全芳は真里谷大学入道全方のことで,天文年間,当地が真里谷氏によって支配されていたことが考えられる。しかし天文23年と思われる2月27日の北条氏朱印状(鳥海盈良氏所蔵文書/県史料諸家)によれば北条氏は「峰上尾崎曲輪」の「下小屋衆共二十二人」に兵粮を送りとどけ,今後とも忠節を致したならば重ねて給恩すべきことを約束している。先の尾崎郭を含む峰上城の城址は現在富津市上後字要害に残っている。峰上城は湊川の中流域にあった山城で,房総丘陵が北から南へ延びている地形を利用し,さらにその外囲を北から西へ蛇行している湊川の支流志駒川を天然の防御線として利用している。別名を上後城・環城・天神山城などといい,上総国に入った武田真里谷信長か,その子孫信定・信興が寛正2年あるいは天文2年頃に築城したといわれる。標高約100m前後の丘陵上にあり,遺構は北から順に本城・中城・外城と並び,各々の区域は空濠で区切られていた。本城が本丸,中城が二の丸,外城が三の丸にあたり,尾崎郭は中城の東側に突出した標高約90mの丘の上に在った。「快元僧都記」天文6年5月14日条(同前)には「大弓(小弓)義明御進発,打過而十六日向峰上被寄御馬畢」と見えているが,これは天文3年の真里谷恕鑑の死後,子息信隆・信応【のぶまさ】の間に起こった家督争いの際,信応に味方した小弓御所足利義明がこの年,信隆の拠城であった峰上城や百首城などを攻めたというもの。のちに里見義堯も義明に応じたので,信隆は降服し,同27日条には峰上城・百首城の兵が赦免されたことが見えている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7296915