柴村(中世)

戦国期に見える郷村名。荏原【えばら】郡に属す。永禄年間の「役帳」には見えず。天文23年7月12日,小田原北条氏は虎印判状をもって,柴金曽木【しばかなすぎ】の船持中に宛てて,舟方条目を出し,船の売買・舟持や舟子の家の売買を禁じ,舟方の欠落(逃散)や下総方面の里見氏領へ出入りすること,舟方公事を勝手に郡代・地頭・主人などが課することなどを禁じ,他の浦へ出漁したりすることを厳禁している。江戸湾(東京湾)の重要港である柴湊【しばみなと】を押さえたものと思われる(武文)。弘治2年12月18日には,小田原北条氏の臣世田ケ谷城将の吉良頼康の所領11貫文があった。永禄3年の虎印判状を見ると,北条氏の直轄領と吉良氏領の入組であったと思われる。直轄領については同年7月5日に柴村の舟方に三浦半島の浦賀城の船方番銭を定め,本船方6人,この番銭が1か月に1貫500文,1人分に割ると250文宛の定めであった。以前は倍の500文が賦課されていたという。永禄7年には再び津留の掟を受けている。吉良氏領分の舟持中には天正15年12月12日に,吉良頼康の時のごとく船役をつとめるように命じられている。吉良氏領の芝村も北条氏の直接支配に編入されたのであろう。芝浦一帯の舟が軍船として徴用されているのは年不明6月29日,北条氏が印判状をもって吉良氏の家臣江戸刑部少輔に柴船6艘の軍船常備を命じている。天正16年7月24日には芝村にたった新宿を守護不入とし,百姓中の宛所になっているのを考えると,舟方と百姓がいて,海浜の漁師と田畑を耕す百姓が居住していたのであろう。当時の芝といわれた範囲はのちの本芝【ほんしば】・金杉【かなすぎ】のあたりと推定される(備考)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7299448 |





