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三河島村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。豊島郡峡田【はけた】領のうち。幕府領,のち東叡山寛永寺(台東区)領。天和元年に東叡山に寄進された500石を元領と称し,元禄11・15年に寄進された残高を新領,あるいは北組と称した。村高は「田園簿」では780石余,田569石余・畑210石余。元禄年間には922石余と増加(元禄郷帳),「天保郷帳」では944石余,幕末には再び922石余(旧高旧領)。なお飛地として,貞享2年の東叡山目録に「三河島村彦五郎分一石八斗六升七合」と見える(三河島町郷土史)。また切絵図では,三ノ輪【みのわ】の町裏で,石神井【しやくじい】用水に面して「彦五郎分田・彦五郎分屋敷」と見える。隅田川沿いの東叡山御用芝地の荒木田の原は,「江戸名所花暦」や大田南畝の紀行文「花時遍游」などに描かれ,江戸の名所地の1つとして寛政~化政期にかけての郊外散索の地としてにぎわった。三河島のつけ菜は「三河島のイイナヅケ」という諺が生まれるほどにその名を喧伝された。副業としての植木栽培も名高く,将軍家出入御用をつとめた植木屋七郎兵衛は江戸三大植木師の1人に数えられ,化政期には使用職人100余人を擁したと伝える(荒川区史)。村内に石神井用水を引く。金杉【かなすぎ】村と入会で反別25反ほどの沼があった(文政7年地誌書上帳)。家数は正徳年間で168軒(名主書上),化政期で181軒(新編武蔵)。小名に荒川・宮地【みやじ】・花ノ木・正庭・蓮沼【はすぬま】・前沼などがある。鎮守は稲荷社。宮地の地名の由来をこの稲荷社に結びつける説もある(画報)。新義真言宗観音寺は天文年間に長遍僧都の開基と伝え,寛政10年,11代将軍家斉の「鶴お成り」の節,この寺を御膳所にあてて以来,幕末期まで歴代将軍の御膳所にあてられ,土地の名産である三河島菜を献上したという。境内に正保元年建立の十三仏を彫った石塔がある。浄土宗浄正寺には三河島村の名主松本市郎兵衛の墓がある。同宗の法界寺境内の長盛薬師如来は眼病に効験ありとして参詣人が絶えなかったという。ほかに新義真言宗の密厳院・同仙光院がある。仙光院は明治初年廃寺となったが,本堂に寺子屋が開かれ,同16年公立峡田小学校が設立された。村内の武家屋敷としては,万治・寛文年間に下野黒羽【くろばね】藩大関氏下屋敷・伊勢亀山藩石川氏の中屋敷・対馬府中藩宗氏下屋敷などが置かれた。また村の北方に妻夫塚・三ツ塚といった古塚がある。明治元年東京府に所属。同5年の戸数220・人口1,200(府志料)。同22年,北豊島郡三河島村と南千住町の大字となる。飛地彦五郎分は同12年三ノ輪村に編入された。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7301426