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愛甲荘(中世)


 鎌倉期~室町期に見える荘園名。相模国愛甲【あいこう】郡のうち。寛元元年7月28日の将軍(藤原頼経)家政所下文に「将軍家政所下 散位藤原清俊,可令早領知熊野山領相模国愛甲庄・上総国畔蒜南北庄領主職……事,右,任母堂〈鶴熊〉今日譲状〈子細載之〉,為彼職,守先例,可令致沙汰之状,所仰如件」と見え,鎌倉幕府は愛甲荘の在地支配権と思われる領主職を母の鶴熊の譲状通りに山内首藤清俊に安堵した(長府毛利家文書/県史資1‐366)。荘園領主は熊野山。成立時期は未詳。小野氏系図によれば,平安末期武蔵横山党の小野隆兼が源為義の「御代官愛甲内記平大夫」を打ち取り,白弓袋とともに当荘を拝領したというが(続群7上),信憑性に乏しい。しかし,「吾妻鏡」には一族の小野季孝が「愛甲三郎季隆」の名で頻出し,平安末期から鎌倉初期には横山党小野流の愛甲氏が当荘を領有していたものと思われる。愛甲季隆は弓の名人として知られ,元久2年6月22日に畠山重忠を一矢で射殺したというが,建暦3年5月6日の和田義盛の乱に与同して戦死し,同左衛門尉・同太郎は生け捕られている(吾妻鏡)。おそらく当荘はこの時に没収されたものと思われ,その後山内首藤清俊の母鶴熊の所領となり,その子清俊に譲与された。その後,鎌倉末期に当荘は足利氏領になっており,正和4年12月20日足利氏の被官長幸連は「相模国愛甲船子屋敷,東野畠弐段,同給田壱町在土器作」などを後妻の子季連に譲り,文保2年9月17日に足利貞氏の安堵を得ている(尊経閣文庫所蔵/栃木県史)。しかし,幸連の先妻の子康連が「相模愛甲土器作田畠屋敷」などの伝領について訴訟を起こしているが,元亨2年5月23日鎌倉幕府は季連を勝訴とする裁許を下した(天野文書/同前)。年月日未詳の足利氏所領奉行注文に足利氏領として記載されている「愛田荘」は「愛甲荘」の誤写と思われる(倉持文書/県史資3上‐3142)。南北朝期と推定される年月日未詳の某書状によれば,「あいきやうのしやうのうちにて候おかたのかう」は7郷に分かれ,各郷ごとに地頭分と領家分が半分ずつとなっていた(金沢文庫古文書/同前4092)。岡田郷の地頭は小笠原政長と思われる。その後,正平7年正月20日足利尊氏は「相模国愛甲庄内上椙兵部少輔跡地頭職」を勲功の賞として松浦秀に宛行っている(松浦文書/同前4129)。同年2月6日には「相模国愛甲庄内船子郷〈梶原五郎左衛門尉跡〉」を本郷家泰に勲功の賞として宛行っている(本郷文書/同前4134)。同年5月9日足利尊氏は,当荘内上杉能憲跡地頭職の打渡しを海老名四郎左衛門入道に命じた(松浦文書/同前4162)。また,康安2年4月25日鎌倉府により当荘内愛名村の南部駿河守跡の下地支配が守公神雑掌方に認められ,5月12日打ち渡された(神田孝平氏旧蔵文書/同前4413)。下って,応永3年7月23日室町幕府は上杉憲定の「愛甲庄屋敷」などの支配を安堵し(上杉文書/同前5166),宝徳元年8月27日,幕府は上杉憲忠に対して愛甲荘を判門田祐元に沙汰付けすることを命じた(足利将軍御内書并奉書留/県史資3下‐6081)。その後の史料には見えず,宝徳3年3月27日の休畊庵寺領注文には愛甲保が見える(報国寺文書/同前6119)。荘域は現在の厚木市南部一帯と推定される。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7302025