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浦賀(中世)


 戦国期から見える地名。相模国三浦郡のうち。文明18年8月から9月にかけて関東方面を歩いた道興准后は,「浦川のみなとといへる所にいたる,こゝは昔頼朝卿の鎌倉にすませ給ふとき,金沢・榎戸・浦河とて三の湊なりけるとかや」と見聞を記している(廻国雑記/群書18)。弘治3年11月15日北条家朱印状写では,国府津【こうづ】の村野氏,落切の二見氏に対して,小田原北条氏の御台所船諸役に従うかわりに「浦賀定詰之舟方」役を半分免除する旨が記されている(相文/県史資3下-7051・7052)。当時相模湾岸の船持ちには,浦賀定詰の所役が課せられていた。正木兵部太輔宛の年未詳3月12日北条氏康書状写に,「為上州普請,近日出馬候,浦賀ニ者,左衛門大夫父子・遠山左衛門・布施・笠原已下人数,たふたふと指置候,可被存心安候」と見える(正木文書/同前7083)。「役帳」にも半役被仰付衆正木兵部太輔の所領役高として「百弐拾五貫八百九十五文 浦賀」と見える。また玉縄衆の愛洲兵部少輔と高尾氏の所領役高を記した後に,「浦賀定海賊付而,知行役御免」と記されている。永禄3年7月5日北条家朱印状写は,江戸湾沿いの武蔵国荏原【えばら】郡柴の百姓中にあてたもので,「浦賀番船方番銭ニ定事……毎月晦日ニ於浦賀……可渡之,可取請取」と浦賀まで番銭を必ず届けるよう命じており,無沙汰の時は船方の「可被刎頭(頸カ)」としている(武文/同前7149)。永禄4年と思われる2月25日北条氏康書状は,高橋郷左衛門尉にあてて「蒔田殿浦賀御移之事,能々思案候ニ,遠慮多候」と書き送っている(高橋健二氏所蔵/同前7186)。永禄7年4月朔日石巻家貞書状案写に,「自去正月廿六日,出陣当国三浦之内号浦賀地,于今在城候」と見え,約2か月も浦賀に在城していたことがわかる(鏑矢記/同前7368)。永禄10年7月18日北条家伝馬朱印状写は金沢より浦賀までの宿中あてに出されており,「鍛銀二ほと番匠被召寄御用」のため伝馬を1疋出すよう命じている(武文/同前7549)。翌日付の北条家朱印状写には,「かち(鍛冶)番匠御急用之間,おしたて於浦賀大草左近大夫ニ可相渡候……廿日ニ必浦賀へ可来候」と記されており,愛洲兵部少輔にあてられている(同前7550)。このように浦賀城を中心とした当地は水軍の拠点として重要な位置を占めていた。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7302437