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大友郷(中世)


 鎌倉期~南北朝期に見える郷名。相模国足柄上郡のうち。大友荘とも見える。鎌倉御家人大友氏の名字の地。「吾妻鏡」文治4年12月17日条に,「式部大夫親能男一法師冠者能直,任左近将監之由,参賀営中……住相模国大友郷,今日始出仕」と見える。ついで貞応2年11月2日の大友能直譲状案(肥後志賀文書/鎌遺3171)では,「壱所 相模国大友郷地頭郷司職」が豊後国大野荘地頭職とともに,関東下文や親父掃部頭入道譲状などを添えて,妻深妙に譲られている。当郷が中原親能から嫡男大友能直へ,ついで深妙へと譲られたことがわかる。また郷司職とあるように,当郷はこの頃国衙領であったとみられる。貞応3年4月24日の関東下知状案(同前3226)により深妙は「相模国大友郷司地頭」職を安堵されている。同職は延応2年4月日に深妙から嫡男大炊助入道(大友親秀)に譲られている(志賀文書/県史資1‐347)。建長4年12月26日の関東裁許下知状案(詫磨文書/同前421)によれば,「相模国大友庄内名田在家」について,詫磨別当能秀(大友能直・深妙の次男)・大友太郎兵衛尉時景と大友式部大夫泰直との間で相論が起こったが,泰直から避文が出されたため,詫磨能秀・大友時景方の勝訴となっている。翌年7月30日の関東裁許下知状案(詫磨文書/県史資1‐430)によれば,この相論は能秀・時景が建長3年正月に母深妙の譲状に基づき安堵下文を申請したところ,泰直がこれに反対したため起こったことがわかる。文永8年2月10日の関東裁許下知状案(同前608)によれば,相論は大友頼泰と詫磨能秀の子時秀・直秀・長秀および大友時景との間にも継続されたが,この時も幕府は深妙の後判譲状と泰直避文を根拠に,頼泰の訴えを退けている。弘安2年4月30日,詫磨長秀は同泰長に対し,「大友郷内てんち五段〈行連房作二反〉,訪(坊カ)城阿弥陀仏跡三反,い上五段」と「屋敷一所,いやへいしかやしきのきし也,〈いのくろ入道〉」を譲っている(詫磨文書/県史資2‐887)。またこれより先の弘長2年8月29日,深妙は大友式部大夫頼泰に書状を認め,大野基直と志賀泰朝に対し「大ともにやしき一所つゝ給ハ」ったことを知らせるとともに,2人が頼泰の命に従わないときはどのようにはからってもよいと述べている(志賀文書/同前1‐491)。同年11月8日,深妙は「大友の伊藤三郎かあとのやしき壱所,ならびに田壱町六反」を志賀泰朝に譲り,頼泰の命に従って知行するよう記している(同前498)。また同日付でその屋敷と田の坪付注進状が作成されており,田は「はう上あまのあと〈つくしのまへ〉」の5反,「八束田なわて」の3反,「をきのまち田のした」の2反,「四郎宮かあと」の2反,「河原田」の1反小などから成っている。田1町6反の所当米は反別2斗5升で計4石,年貢銭は反別30文で計480文となっている。元亨2年11月27日の詫磨親政和与状(詫磨文書/県史資2‐2330)によれば,「おほとものかう(大友郷)のうちのたやしき(田屋敷)」について親政と一房丸との間で相論が行われていたが,このとき和与している。正慶2年3月13日の沙弥具簡(大友貞宗)譲状案(大友文書/県史資2‐3069)では,「相模国大友庄」が豊後国守護職などとともに,家嫡である千代松丸(大友氏泰)に譲られている。建武元年4月18日の後醍醐天皇綸旨案(詫磨文書/県史資3上‐3160)では,詫磨別当太郎宗直に対し「相模国大友郷内田地壱町・屋敷等地頭職」その他を安堵している。しかし同年10月16日の雑訴決断所牒案(同前3186)によれば,この田・屋敷が矢田与一の乱暴を受けていることがわかる。貞和3年6月11日,詫磨貞政は「一丁さかみのくに大友郷内延清名〈わらわとのひんかしかわらまんところ田五反,かわらた五反なり〉」とその他を同宗直に譲った(同前3978)。他方,観応3年9月22日の足利義詮所領所職安堵下文(大友文書/県史資3上‐4190)によって,大友氏時は「相模国大友庄」やその他の所領・所職・守護職などを安堵されており,それらは貞和4年8月18日に兄の氏泰から譲られたものであった。貞治3年2月日の大友氏時所領所職注進状案(同前4492)には氏時の当知行として「相模国大友郷〈付,延清名〉」と見える。永徳3年7月18日の大友親世所領所職注文案(同前4926)には「大友庄」とある。ところで,文和2年12月19日の相模国大友荘領家分年貢請取状(同前4251)では,「八幡宮領相模国大友庄領家御年貢」と見え,地頭代佐保入道から年貢15貫文が納入されている。翌年12月27日には12貫文の請取状が,延文3年4月19日には前年分7貫500文の請取状が出されている(同前4291・4334)。鶴岡八幡宮が領家であったことがわかる。寛正3年12月21日の堀越公方足利政知寄進状(鶴岡八幡宮文書/県史資3下‐6287)では,「相模国東大友半分〈松田左衛門尉跡〉」が鶴岡八幡宮に寄進されている。なお戦国期の「役帳」には,小田原北条氏小田原衆松田新次郎の所領役高として「五拾六貫五拾三文 同(西郡)東大友」が,同じく小机衆北条三郎殿の所領役高として「百八拾貫文 西郡西大友」が見える。天正13年7月23日の北条家朱印状(長善寺文書/同前9102)によれば,笠原越前守康明は「西郡大友」に長善寺を建立している。天正18年4月日付の豊臣秀吉禁制(相文/同前9737)が,「西郡内……大とも」他6か所に下されており,秀吉は小田原攻めに際して当地を掌握しようとしたことがわかる。江戸期には東大友村・西大友村が見える。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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