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金子郷(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える郷名。相模国足柄上郡大井荘のうち。年未詳の二階堂氏所領証文目録(二階堂文書/県史資1-642)に,「一通 相模国大井庄内金子郷御下文」と見える。大井荘は,建暦3年5月の和田義盛の乱の際,戦功のあった二階堂行村に宛行われており(吾妻鏡建暦3年5月7日条),以後代々二階堂氏に伝領された。弘安6年7月23日の将軍家政所下文(二階堂文書/県史資2-956)には,「可令早前隠岐守藤原行景領知相模国大井庄内金子郷〈信濃次郎左衛門尉行氏跡〉事」とあり,二階堂行氏跡が行景に安堵されている。しかし行景は弘安8年11月の安達泰盛の乱に加担したため当郷はその時に没収されたものと思われ,その後の当郷と二階堂氏の関係は不明。下って戦国期の「役帳」に,小田原北条氏小田原衆の花之木の所領役高として406貫文のほかに「此外 三百八拾壱貫六百文 金子郷 寄子給」,御馬廻衆安藤源左衛門の所領役高として「五拾七貫八百拾七文 西郡 金子内」と見える。永禄9年2月21日の北条綱成判物(最明寺文書/県史資3下-7470)によれば,当郷内の西明寺は玉縄城主北条綱成から「金子之郷内西明寺領五貫六百五十文」の寄進を受け,同年4月にも修理料として3貫文の寄進を受けている(同前7482)。同寺は天正3年9月29日の相模国諸真言衆法度(金剛頂寺文書/県史資3下-8301)に,「金子 西明寺」と見えるように当郷内に存し,金剛頂寺の末寺であった。なお江戸期の「新編相模」によれば,西明寺はもと松田庶子の地にあったが,文明年中に現在の大井町金子の地に移転したという。また天正10年(推定)8月27日の北条綱成黒印状(堀内文書/同前8782)には,家臣堀内氏に「中郡恩名之郷弐拾貫文」とともに「西郡金子之郷」のなにがしかを宛行っていることが見える。さらに天正18年4月日の豊臣秀吉掟書(間宮文書/同前9689)が「かねこの村」に,同じく秀吉禁制(同前9733)が「相模国西郡 金子郷」に下されており,秀吉は,小田原攻めの際に当地を掌握しようとしたことがわかる。ことに「かねこの村」に対しては,百姓に当地へ還住を命じ,併せて保護のため乱暴を停止している。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7302888