白根村(中世)

室町期~戦国期に見える村名。大住郡のうち。長禄3年10月25日の実相院門跡領目録(実相院文書/県史資3下-6268)に「相模国白根四ケ村」と見え,園城寺実相院門跡領の1つであった。その後永正16年4月28日,北条早雲は幼息菊寿丸(のちの長綱幻庵)に箱根領を与えたが,この時の宗瑞箱根領注文(箱根神社文書/同前6539)に「一,五くわん文〈但いのとしの納分〉しらね小やす」と見える。戦国期の「役帳」には,小田原北条氏小田原衆の布施弾正左衛門の所領役高として「廿貫文 同(中郡) 白根之内おはさま分」と見える。同じく小田原衆の遠山左衛門の所領役高として「三百四拾壱貫文 中郡 白根之内」,江戸衆の小幡源次郎の「百四貫文 白根山田名 拾貫文 同所大沢五郎左衛門分内増」が見える。そのほか御家門方の幻庵の所領役高のうちに,「御新造知行分」として「中郡 白根内箱根分」がある(役帳)。また,天正2年10月3日の遠山康英寄進状写(相文/県史資3下-8234)に「於白根之郷新地取立候」とあり,北条氏康の位牌所として,小田原北条氏の家臣遠山康英が,地内の万松寺(現三ノ宮)に,茶銭200疋の田地などを寄進している。天正18年4月17日の内藤景豊感状写(相文/県史資3下-9673)によれば,「中郡白根表」に京勢および地下人などが群居していたところ,小田原北条氏方がこれを討ったといい,佐藤伝左衛門にその際の感状がだされている。また,小田原落城ののち,遠山直吉は当地に妻子を置いて,主北条氏直に従い高野山に登ったが,徳川家康の命をうけて,家康に臣従することになったという(新編相模)。なお天正19年11月日の徳川家康寄進状写によれば,「相州中郡白根郷」のうち10石が三之宮神社に寄進されている(記略)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7303821 |