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菅(近代)


 明治22年~現在の大字名。はじめ稲田村,昭和7年稲田町,同13年川崎市,同47年からは同市多摩区の大字。一部が昭和45年寺尾台1~2丁目,同53年西生田1丁目・多摩美1丁目・細山6丁目となる。明治24年の戸数277,男878人・女834人。多摩川低地の水田での稲作が中心であったが,明治中頃から,ナシ栽培や養蚕がはじめられ,養蚕は大正期に全盛となった。ナシづくりは,大正14年にナシの共同出荷を目的に稲田信販購組合が設立されるなどして,養蚕が衰微する昭和初期に盛んとなり,多摩川ナシの商標で出荷された。昭和の不況期には,稲田村に農民組合が,日本農民組合総同盟の指導により結成され,当地の小作農多数が加入した。また,和製唐紙の在来産業のあとをうけて,近代製紙工業として,明治41年に安藤製紙工場が設立され,桜花紙やふすま紙,紙幣用印刷紙などを製造した。大正5年,京王電気軌道が調布から延長して多摩川原(多摩川対岸の京王多摩川)駅まで開通し,菅の渡しを渡って利用が可能となった。昭和2年,南武鉄道(国鉄南武線)が村内を通り,稲田堤駅が設置された。昭和7年の戸数382・人口2,258。明治31年改修された多摩川堤防上に村民が総出で植樹した桜並木が大樹となり,稲田堤の桜と呼ばれ,東京近郊の桜の名所となった。昭和16年には,稲田堤駅前を通り,堤防へ向かう桜並木の観光道路が敷かれ,花見客でたいそうにぎわった。第2次大戦中は主食確保のため果樹栽培は打撃をうけ,菅小学校は一時,軍隊の宿舎に利用された。昭和23年南端の丘陵地の一角に日本女子大学付属高校が移転され,同33年には芝間市営住宅が建設され,次第に宅地化がはじまった。昭和25年の人口3,708,同35年の世帯数1,950・人口8,433。同39年,丘陵地の一部が切り開かれて,よみうりランドやNTV生田スタジオが出現した。同45年には公団寺尾台団地の完成にともない,東菅小学校が新設された。昭和45年の世帯数4,822・人口1万7,494。同46年には京王相模原線が多摩川を渡って町内を横断,京王稲田堤駅が開業し,都市化を早めた。宅地化の進行で,一時盛んとなった養鶏や酪農が次第に姿を消し,住宅に囲まれたナシ畑は,もぎとり専門の観光果樹園にかわった。同47年には,市の園芸技術普及農場(山地果樹試験地)が,フルーツパークとして市民に開放された。この年着工された住宅・都市整備公団による西菅土地区画整理事業は,町内に残されていた多摩丘陵の自然を大きくくずして,現在も続行中である。昭和55年の世帯数6,579・人口2万1,323。同58年には,造成地の一角に県立菅高校が開校。なお,昭和48年に多摩川で最後まで残った菅の渡しが廃止された。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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