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堤郷(中世)


 南北朝期~戦国期に見える郷名。相模国高座【たかくら】郡大庭御厨のうち。延文5年前後の作と思われる「神鳳鈔」に,「大庭御厨 十二郷……堤郷ハ各別本神領也」と見え,また同書の「享徳元年経見代被成庁宣等」の所にも「同堤郷ハ十二郷外也」とある(茅ケ崎市史1)。この時期には,当郷は大庭御厨12郷と区別されている。至徳元年閏9月3日鎌倉公方寄進状によれば,「大庭御厨堤郷内田地肆段」が懐嶋勝福寺光明院に寄進されている(相模文書/県史資3上‐4968)。寛正5年8月9日の伊勢大神宮庁宣案には,御裳濯河修治のため大庭御厨・堤郷・武蔵国飯倉御厨の3か所に堤防役河籠米をかけたことが記されている(内宮引付/同前3下‐6297)。しかし応仁3年正月26日荒木田氏経書状案によれば,それを徴収する力は伊勢神宮にはなく,太田資清に,神領を押領する土豪らを堅く成敗してほしいと依頼せねばならない状態であった(同前6311)。戦国期の「役帳」には,小田原北条氏の伊豆衆である大見衆3人(梅原杢左衛門・佐藤四郎兵衛・上村玄蕃)の所領役高として,「三拾貫文 東郡 堤」が見える。天正18年4月日の豊臣秀吉禁制写(相文/県史資3下‐9750)は,「相模国つゝみの村」に下されており,秀吉が小田原攻めに際して当地を掌握しようとしたことがわかる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7304202