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箱根(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える地名。相模国足柄下郡のうち。中世における箱根の発展は,平安末期~鎌倉初期に著しい隆盛をみる箱根権現の活動と深くかかわっている。源頼朝をはじめ歴代将軍およびその他有力武士などの箱根権現に対する崇敬は篤く,しばしば参詣した。「吾妻鏡」承久3年5月19日条に「固関足柄・筥根両方道路」とあり,承久の乱での京方の攻撃に対する重要拠点として当地の防備が固められている。貞永元年7月10日の御成敗式目最後にある起請文の罰文に「伊豆筥根両所権現」と見え,宝治元年8月5日の伴信俊・信忠・信資連署起請文にも「いつ・はこね・みしま大ミやうしん」とある(入来院家文書/県史資1‐387)。建長元年8月21日沙弥深念譲状に,「在相模国足柄下郡早河庄田子郷一得名内田地屋敷在家事 一,田地事……(蓑)輪田肆段〈此内筥根大般若田壱段〉」と見え,「関東往還記」弘長2年2月25日条には,「申剋着相模国筥根,俄而参社頭」とある(西大寺叡尊伝記集成)。また建武2年8月の足利尊氏関東下向宿次・合戦注文には,「十七日,筥根合戦」と見え,水飲・葦河・大平・湯本などの地名が知られる(国立国会図書館所蔵文書/県史資3上‐3231)。その後も当地は軍事上の重要な地点として,応永23年の上杉禅秀の乱でも1つの舞台となり,また永享の乱でも「京都よりの討手大勢,足柄・筥根二手に分,押寄る」という状況であった(永享記/続群20上)。永禄12年と推定される正月10日の北条氏政書状写に「注進状……於箱根披見」とあり,氏政は当地から書状を出している(垪和氏古文書/県史資3下‐7661)。同年7月2日の北条氏康朱印状には,「箱根竹百束,三日之内切調,大屋可渡申」とあり,桑原郷(現小田原市桑原)の小代官・百姓中に箱根の竹を切るよう命じている(森文書/同前7829)。天正18年の小田原攻めに際しては,豊臣秀吉方の軍勢が当地を通過し,あるいは陣を張っているが,天正18年6月日榊原康政書状案写には「卯月朔日箱根御越山,二日峠々峯々御陣取り,三日ニ小田原へ被押詰候」と記されている(松平義行所蔵文書/同前9810)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7304666