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真鶴村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。足柄下郡のうち。小田原藩領。村高は,寛永年間小田原領西筋村々高ノ帳(神奈川叢書9)111石余,「元禄郷帳」161石余,「天保郷帳」283石余,「旧高旧領」283石余うち小田原藩領278石余・貴船社除地2斗余・菅原社除地6升・西念寺除地1石余・発心寺除地6斗余・常泉寺除地3斗余・西福寺除地6斗余・自泉院1石余・長徳寺除地2斗余・宝性院2斗余。検地は万治2年。「駿府記」慶長16年10月15日条には「今日於途中,白御鷹始摯真名鶴」とあり,当地で家康が鷹狩を行ったことがわかる(大日料12-8)。「新編相模」によると,江戸から23里12町,東西15町・南北22町,家数275軒,熱海【あたみ】道が村の西を通る。また農間余業は漁業,漁船は47艘,湊は東西115間・南北205間,江戸へ運送する船は石・薪炭・樒・湯河原温泉湯を運ぶ小廻船8艘,漁魚を運ぶ魚艇5艘,海路は江戸へ37里・三崎へ18里・浦賀へ23里・下田へ26里・網代へ5里,産物には敷石・礎石・甃石に用いる石,鎮守は貴ノ宮明神社,ほかに市倉明神社・天神社・愛宕社がある。寺院は浄土宗湊上山西念寺・発心寺,曹洞宗水上山自泉院・清涼山常泉寺・東向山西福寺・久峯山長徳寺,ほかに当山派修験宝性院と観音堂がある。「豆相海浜浦々図」によると,湊は口1町20間余・奥行4町10間程・深さ1丈4尺程,地内の船数79艘うち廻船5・小廻船9・猟船25・橋船26・丸木船14,船年貢は永18貫135文,蚫運上は乾金15両(県立図書館所蔵/三浦古文化3)。寛文12年村明細帳によれば,家数207軒,廻船43・丸木船35・海士船1・伝馬船18,水主は187人。また江戸初期には,江戸城の石垣普請の公用石・大名御用石・町人百姓の商売石が切り出されていた。なお漁業では,沖合いに海老網・鰤網・ぼうけ網・鯛長網・ぼら網などが設置された(県史資4)。幕末期の黒船来航により,嘉永3年沖合いに台場が築造された。明治4年小田原県から足柄県を経て,同9年神奈川県に所属。明治6年立誠舎が開校。同17年岩村・福浦村が連合して真鶴村外2か村組合ができ,当村に組合役場が置かれた。同22年市制町村制施行により岩村飛地を加え,単独で自治体を形成。なお飛地は岩村・福浦村の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7305111