矢部郷(中世)

鎌倉期~戦国期に見える郷名相模国三浦郡のうち谷部・屋部とも書く宝治元年6月20日の藤原頼嗣寄進状に「相模国谷部郷」とあり,三浦泰村の乱を平定した後,将軍藤原頼嗣が鶴岡八幡宮に寄進している(鶴岡八幡宮文書/県史資1‐386)江戸期の「新編相模」では,これを鎌倉郡(現在の横浜市戸塚区矢部町)とするが,「鎌倉市史社寺編」では三浦郡(現在の横須賀市大矢部・小矢部)とすべきだとしており,詳細は不明「吾妻鏡」建久5年9月29日条に,源頼朝が三浦義明の没後を弔うために「三浦矢部郷内,可建立一宇之由思食立」とあるまた嘉禎3年6月1日条には,三浦義村の娘で北条泰時室となりのちに佐原盛連に嫁した「矢部禅尼〈法名禅阿〉」に,和泉国吉井郷が譲られ,その下文は彼女の居住する「三浦矢部別庄」まで届けられたと記されている当郷は三浦氏の本拠衣笠城の近くに位置し,三浦義明の墓所満昌寺などがあり,本貫地と考えられる承久の乱の際に京方となった三浦胤義の子供5人は,「三浦の屋部」で祖母に養われていたが処刑されることになり,4人が手越(田越)の河端で殺害された(承久記/新撰日本古典文庫1)当郷のその後の動きは不詳だが,戦国期に至ると「役帳」に,小田原北条氏の半役被仰付衆正木兵部太輔の所領役高として「百八十七貫三拾七文 矢部」と見える北条氏滅亡後天正18年7月に豊臣秀吉は鎌倉に入り,鶴岡八幡宮に対し同宮領の指出を提出させたその際の7月17日付の鶴岡八幡領注文には「三貫文〈相州〉屋部郷之内 但灯明領」とあるが(後藤俊太郎氏所蔵文書/浦和市史2),これについては前述したとおり鎌倉郡・三浦郡の2説がある現在の横須賀市大矢部・小矢部一帯を含む地域に比定される

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7305391 |