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糸魚川町(近世)


 江戸期~明治22年の町名。頸城郡のうち。旧糸魚川(清崎)城下に形成された町の総称,江戸中期以降は糸魚川藩の陣屋所在地。はじめ高田藩領で,同藩重臣が清崎城に居城,のち寛永元年松平光長の高田入封とともに家老荻田主馬が清崎城代に任命され,糸魚川周辺で1万4,000石を知行し,当地方を統治した。糸魚川は北陸道によって越中方面に通じ,信州問屋6軒が指定されるなど信州街道の起点でもあり,宿駅が置かれ早くから軍事・流通上の拠点であった。この時期,清崎城周辺に家臣の屋敷地が形成され,北陸道に沿って東西に寺町・大町・新屋町・七間町・横町の古町ができた。つづいて承応元年信州街道に沿って新田町・鉄砲町の新町が町立てされた。同年大町に加賀藩の本陣が置かれた。城下各町は町奉行が支配し,町年寄(七間町小林甚兵衛・大町小林九郎左衛門)の下には各町に肝煎(庄屋)が置かれた(県史通史編4)。「正保国絵図」では,糸魚川村とあり高777石余,「天和高帳」では7町に分けられ計1,278石余,「天保郷帳」では糸魚川町1,306石余。越後騒動によって,天和元年城代荻田主馬は八丈島へ流罪となり,清崎城も取りこわされ,城跡は7町に払い下げられ,一帯は幕府領となった。元禄4年有馬清純が糸魚川城主(5万石)となり,当地に入封,のち本多氏を経て,享保2年松平直之が1万2,000石で糸魚川の城主となるが,同氏は定府大名であったため当地は陣屋支配となった。陣屋は横町にあり,郡代(城代)・奉行・代官ら在所詰役人のほか手代・足軽・中間など約40人が詰め,領民支配を行った。城下町消滅後の糸魚川町は西廻海運の中継のほか物資流通の中継点として発展するが,その中心的役割を担ったのが信州問屋6軒(中村五兵衛・水谷源兵衛・木藤源左衛門・野本徳左衛門・町沢弥三治・谷内六郎左衛門)である。山口・虫川両番所を通って信州に出入する物資は6問屋が管轄し,荷物1駄につき銀5分の運上が徴収された。なお,荷物は圧倒的に信州への出荷物が多く,塩荷物のほか沿岸でとれる海産物が大部分を占めていたと思われる。また,信州からの牛方やボッカ(荷負い人夫)の定宿も6問屋に限定されていた(県史通史編4)。南部の丘陵地では宝暦年間からミカンが栽培され,信州・越中へ売られた。信州問屋のほかにも大町・新屋町に商家の店がふえ,在郷町としても発展した。天明3年七間町に町会所が設置される。寛政3年の人数3,992。なお,海岸からの強風による大火が多く,安永6年には525軒を焼く火災があり,翌年出火地点の横町に秋葉社を勧請したが,その後も火災はたびたび猛威をふるった(西頸城郡誌)。糸魚川藩の財政窮乏に起因する領民からの御用金・御頼金取立に反対して,安永8年沖の口運上銀騒動,文政2年黒川騒動が起きた。黒川騒動では窮民が江戸の藩役所に願い出,さらに糸魚川町年寄松山察右衛門宅などを打ちこわし,翌3年には騒動関係者が処罰されるとともに,領民の主張を認めて御頼金が取止めとなった。神社は天津神社・柳田権現(のちの奴奈川神社)・金比羅社・諏訪神社・秋葉社など。寺院は浄土宗善導寺,曹洞宗直指院・真常寺,真言宗宝伝寺,真宗大谷派常誓寺・西性寺・徳正寺・正覚寺,日蓮宗経王寺など。ほかに観音堂がある(同前)。幕末・維新期に大町持命院隠居鷲田仲節が寺子屋を開いていた。また,明治2年清崎の旧家老綾部氏宅を仮校舎に藩校明道館が開校。同校ははじめ士・卒族の子弟のみであったが,のち平民の子弟も入学するようになり,校舎は郡代役所に移された。なお,同5年閉校。同年相崎県校の糸魚川分校が横町旧陣屋の一角に開校(のちの糸魚川小学校)。明治12年からは西頸城郡に所属。七間町直指院に西頸城郡役所開設。同13年西頸城学校が開校,翌14年西頸城中学校となる。同22年市制町村制の施行による糸魚川町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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