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奥山荘(中世)


鎌倉期~戦国期に見える荘園名越後国蒲原郡のうち荘域は中条町・黒川村の大部分と加治川村・関川村の一部西は日本海,南は加地荘,北は荒河保に限られ,東は出羽国と国境をなす飯豊山地まで及んだと考えられる文治2年2月日の関東知行国乃貢未済荘々注文に「〈殿下御領〉奥山庄」とあり摂関家領(吾妻鏡文治2年3月12日条/鎌遺60)建長5年10月21日の近衛家所領目録には「〈高陽院領内〉越後国奥山庄」と見える(近衛家文書)11世紀半ば以降,平惟茂流の城氏一族が出羽国から南下し,この地域に土着化を進めたと考えられる系図類によると,惟茂の孫貞兼は奥山平大夫,また同じく孫の繁家は奥山三郎と見え(尊卑分脈),さらに12世紀前半の人物である城永基の子永家は奥山黒大郎と見える(山形大中条文書桓武平氏庶流系図/中条町史資料編1)正治3年2月に城長茂が京都で鎌倉幕府に対して挙兵した際,越後でも城資盛や坂額等城氏一族が蜂起するが(吾妻鏡建仁元年5月14日条),この時資盛や坂額が幕府軍と戦った鳥坂山は当荘内にあり,奥山荘は城氏一族嫡流の本拠地と考えられる城氏は幕府側から所領・所職を没収され,相模国を本拠地とする和田宗実は建久3年10月21日に鎌倉将軍家政所下文により奥山荘地頭職に補任されているが(山形大中条文書),宗実が当荘地頭職を獲得したのは,これ以前にさかのぼる宗実は兄義茂の子高井重茂を猶子として奥山荘地頭職を譲与する重茂の後家津村尼を経て奥山荘政所条・黒河条地頭職は重茂の子三郎時茂が,同荘高野条地頭職は時茂の弟四郎茂村が分割相続した(山形大中条文書)仁治元年9月時茂は荘園領主側の預所と争って和解し,先例に従って当荘の地頭請所権を確認させ,領家側に納める年貢米は100石(代銭で60貫),御服綿は1,000両(代銭で80貫)と取り決められている(同前)時茂(道円)は,建治3年11月5日に3人の孫に奥山荘を分割譲与し,義頼【よりみち】(茂連)に飯積・石曽禰・赤河・築地・御宝殿・羽黒・鼓岡・村松(同前),義長(義基)に関沢・長橋・鱒河・大塚・清水・上柳・夏居(伊佐早文書/鎌遺13049),茂長【ながもち】には草水・荒井・江波多・松浦・新源次名田・鍬江・黒川・志居屋机立が譲与された(反町三浦和田文書)翌弘安元年5月に3人は将軍家政所下文により所領の地頭職を安堵され(同前・山形大中条文書,伊佐早文書/鎌遺13049),幕府から対等な御家人として掌握されることになったのちに茂連・義基・茂長の各系統は,それぞれ中条氏・関沢氏・黒川氏を称する中条では,永仁年間に茂連の子茂明(茂貞)と茂泰の異母兄弟間で,茂連遺領をめぐって相論が展開し,永仁4年11月に茂明が勝訴するが(山形大中条文書),翌永仁5年2月義基・茂長と対立していた茂明は敗訴し,中条など道円から茂連に譲与された所領は幕府側に収公された(同前・反町三浦和田文書)正安3年に中条は茂明のもとに戻るが(中条町役場所蔵の波月条絵図は,この間の相論の過程で作成されたもの),茂明は嘉元2年に起きた北条時村の暗殺事件に巻き込まれたため,中条は得宗北条貞時が掌握した(山形大中条文書)茂明の子茂継が御家人に復帰するのは正慶2年正月である(同前)この間,茂連の後家で茂泰の実母の道信は,中条の領有権をめぐって北条規時を相手に訴訟を起こし,正和3年9月に中条内の羽黒・鷹栖を獲得し,元亨3年3月これを孫の義成に譲り羽黒家を興している(同前)奥山荘北条の茂長家でも,茂長の代の正応5年に荒河保との所領相論が解決し境界が確定して,和与絵図も作成されている(反町三浦和田文書)茂長は永仁3年7月に北条のうち黒川条と草水条を子息兼連に譲与したが,他の北条の所領の多くは茂長の妻の1人(下総国の葛西経蓮とその妻仏心との間に生まれた女性)に譲り,この妻の姪にあたる松弥は延慶3年9月に幕府から北条10か村の領有を安堵されている(同前)松弥の死後北条10か村のうち,山上・江波多・村上・山野・持倉・長谷・荒居の7か村は松弥の夫の海老名忠顕へ,また鍬江・塩沢・塩谷の3か村は仏心を経てその孫娘である茂長女子に伝領された(同前)一方茂長から黒川条と草水条を譲与さた兼連は,徳治3年8月黒川条は弥福(茂実)に,草水条は犬若丸(章連)に譲与するが,このうち弥福宛の黒川条は兼連母覚性の一期分であり,茂実が黒川条を正式に得たのは元徳2年である(同前)しかし黒川条地頭職は覚性知行の段階で長井福河斎藤氏に譲られたことを示す文書もある(斎藤実寿所蔵文書/県史研究19)道円から奥山荘南条を譲与された義基は永仁3年12月3日に南条のうち関沢・大塚・下柴橋・清水・夏居を嫡子義章に譲与し(奥羽編年史料所収伊佐早文書/鎌遺18938),義章は同所領を嘉暦元年12月20日妻藤原氏に譲与している(同前/楢葉町史2)しかしこの関沢氏嫡流は北条氏と滅亡を共にしたらしく,南北朝期以降にあらわれる関沢氏は義章の弟基連の系統であるなお,南条に属する金山郷は早くに高井氏の領有を離れ,金沢北条氏領を経て称名寺領となった(反町三浦和田文書)鎌倉幕府滅亡後,奥山荘の和田(高井)氏一族は三浦和田氏を名乗るが,当初,一族間における激しい対立がおこり(同前),また中条・北条では各家が所領の安堵申請や軍事面で別個に行動しているが,南北朝内乱の過程で次第に各惣領家が力を強めていく中条の場合,茂継は建武2年6月に後醍醐天皇綸旨により奥山荘中条村々の地頭職が安堵されている(山形大中条文書)同4年6月に茂継は弟茂資にこれらの所領を譲与し(同前),茂資が中条惣領として,観応の擾乱の段階には羽黒家をも包摂して庶子家として位置づけていく一方,金山郷を恩賞地として獲得し,築地・金山氏等の庶家を新たに分出していく(同前・反町三浦和田中条文書)北条の場合,鎌倉末期に嫡流の茂実の所領は黒川条に限定されていたが,南北朝内乱を経る中で建治3年に道円が茂長に譲与した北条の所領は,実質的に再び茂実の領有するところとなり,茂実は延文4年に奥山荘北条惣領職および茂実の知行分のすべてを嫡子時実に譲与し,ついで時実の代に至ると鎌倉期に成立していた庶子家高野・関両氏の所領である高野郷・関郷の管領をも主張するようになった(反町三浦和田文書)奥山荘南条に属する金山郷の地頭職は文和3年に中条茂資が恩賞として獲得し,以後中条氏の所領となるのち金山郷は称名寺に安堵されたこともあったが(金沢文庫古文書),下地支配の実質は中条氏が掌握し続けた奥山荘南条の関沢氏は建武以降,奥山荘で義章の弟基連の系統の義政や関沢孫次郎(義久)の活動が知られるしかし名字の地である南条内堰沢条は康永3年に三浦道祐に充行われ(反町三浦和田文書),これに対し,観応年間以来,堰沢孫次郎が押領したとして再三訴えが幕府に出されている応永の大乱を契機に関沢顕元はいち早く守護上杉氏の被官となった(反町三浦和田中条文書)奥山荘を拠点とする中条・黒川両氏は,室町・戦国期を通して越後国屈指の有力国人領主に成長するが,その基本的骨格は,南北朝期の茂資・茂実の段階に形成された両氏は上杉景勝の会津移封に際し行動を共にし,奥山荘から去っていく




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7307702