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頸城郡


郡内総石高は,慶長3年の堀検地で13万8,941石余(柿崎町史),「正保国絵図」14万1,027石余,「天和高帳」1,262村・20万2,692石余,「元禄郷帳」1,087村・20万6,834石余,「天保郷帳」1,098村・22万4,528石余,「旧高旧領」1,162村,22万4,548石余である。慶長3年上杉氏に代わって堀氏が春日山藩主として入封し越後一円を支配し,福島藩(慶長12~19年)を経て高田藩初代の松平忠輝が元和2年改易されるまでは,頸城郡だけでなく越後全域が同一藩領(与力大名村上・新発田【しばた】領を含む)であり,いわば当郡はその統治の中心をなしていた。忠輝改易後,代わって高田に入封した酒井家次(元和2~4年在封)は知行高10万石にすぎず,元和2年以降には当郡内も高田藩領のほか,幕府領,牧野氏の長峰藩領(元和2~4年)が混在し,次いで松平忠昌の高田在封中(元和4年~寛永元年)には,牧野氏の長岡移封で長峰藩は廃され,当郡一円は再び高田藩領となり(糸魚川2万石の稲葉正成は忠昌の付家老),続いて松平光長の高田在封期(寛永元年~天和元年)も郡内一円が高田藩領であった(糸魚川城代の荻田氏は光長の家老)。「寛文朱印留」では一円が高田藩領で,683村・13万9,071石余とある。天和元年越後騒動の責を負って光長が改易されると,遺領すべてが幕府に収公され,以後4年5か月間当郡は幕府の勤番支配となる。この間の天和2年,幕命で遺領全域に施行された検地(天和検地)の結果,郡内の総石高は前記のように20万石余になり,堀検地に比し6万石余の増高となる。これは,光長時代に中江用水などの大用水が開削され,大瀁【おおぶけ】地方その他の排水開田事業が進められたからである。そのため,近世初期には郡内に大崎郷・板倉郷・武士【もののふ】郷・高津郷・津有郷・里五十公【さといぎみ】郷・山五十公郷・松之山郷・上美守【かみひだもり】郷・下美守郷,保倉谷・桑取谷・名立谷・能生【のう】谷・早川谷・西海谷・根知谷・川西谷の10郷8谷(上杉時代の郷名をいくらか改正したもので,郷と谷は機能的には同じ)あったのが,光長時代には,大崎郷から下之郷が分立,板倉郷が上板倉郷と下板倉郷に分かれ,津有郷から新田郷と大道郷が分立,下美守郷から大瀁郷が分立し,計15郷8谷に増えている。勤番支配ののち,高田藩が再立藩され,稲葉正通(在封貞享2年~元禄14年),戸田忠真(元禄14年~宝永7年),松平越中守家(宝永7年~寛保元年),榊原家(寛保元年~明治4年)と藩主が交代した。その間,元禄4年糸魚川藩が立藩され,同12年からは1万石を所領とし,また同15年~元文4年には高柳(新井市)に陣屋を置く丹羽氏の高柳藩1万石があった。さらに,光長改易後の郡内には広大な幕府領が出現し,それを支配する代官所(陣屋)も吉木,高野,戸野目,稲村,新井,川浦などに置かれ,幕府領・私領間の村替えもしばしばあった。享保7~10年郡内の幕府領で起きた質地騒動では,幕命により高田藩主松平定輝が武力によって鎮圧,磔刑以下100余名の処刑者を出した。村替えのなかで大規模なのは,文化6年陸奥国にあった高田藩領9万石のうち5万石余を当郡内の幕府領のうち5万石と取り替えたことである。これにより用水開削などをはじめ藩政の展開が円滑になった。文政3年の「越後国頸城郡細見絵図」で郡内の領有関係をみると,高田藩領615村・12万2,777石余,幕府領471村・8万5,772石余,糸魚川藩領54村・9,350石余。「旧高旧領」によると,幕末には高田藩領616村・12万4,839石余(中頸城郡496村・11万1,415石余,東頸城郡12村・1,224石余,西頸城郡108村・1万2,198石余),清崎藩領54村・9,924石余(中頸城郡15村・2,153石余,西頸城郡39村・7,770石余),幕府領467村・8万4,911石余(高田藩預所253村・4万8,773石余,うち中頸城郡193村・4万3,186石余,東頸城郡24村・2,642石余,西頸城郡36村・2,944石余,出雲崎代官所135村・1万4,180石余,川浦代官所79村・2万1,957石余,うち中頸城郡78村・2万1,668石余,東頸城郡1村・288石余),除地2,213石余(中頸城郡1,280石余,東頸城郡129石余,西頸城郡804石余),寺社領2,355石余となっている(県史研究15)。郡内の主要産物として古くから青苧・麻布があり,正保2年版「毛吹草」に載せる諸国名産のなかに松山白布・網苧がある。なお,同書では,米山当帰・糸魚川糸魚・直江川八目鰻も名産にあげている。しかし,青苧・麻布の生産は天和~元禄年間頃から急に衰える。これに反し慶長年間郡内の大鹿に伝えられた煙草栽培は,主として妙高山麓の火山灰地帯に広まって盛んになり,現在に及んでいる。天明6年今町(直江津)港の移出貨物を見ると,米(幕藩の城米,民間の払米)はすべて郡内産,油粕の8割は当郡,2割は信州産,干鰯はすべて当郡となっている(直江津町史)。第2次長州戦争・北越戊辰戦争ではともに高田藩は重要任務を負わされ,とくに後者の場合は当郡が新政府軍の進路に当たったため,村々に夫人足の徴用,諸物資の提供,宿泊接待などが強要され,村民は多忙な日夜を送った。幕末の幕府領は,明治元年柏崎県に所属,その他は明治4年7月の廃藩置県で高田県・清崎県となり,同年11月すべて柏崎県に統合,同6年新潟県に編入された。その間の明治5年柏崎県に大区小区制が施行され,当郡は第6大区(東頸城),第7大区(中頸城の保倉川以北),第8大区(中頸城関川以東),第9大区(西頸城),第10大区(中頸城関川以西)の5大区に分けられたが,翌年新潟県に統合されたため区画の改正が行われ,この際に刈羽郡嶺村が当郡の所属となった。さらに同9年相川県の新潟県編入により区画が大改正され,当郡は第7大区(中頸城保倉川以北),第8大区(中頸城関川以西),第9大区(西頸城),第10大区(中頸城関川以東),第11大区(東頸城)の5大区となった。明治10年,原之町(現中頸城郡吉川町)に自由民権思想家により県下最初の政社として明十社が結成された。会員は60余名。翌年には弘毅社(東頸城)・同志会(高田町)が生まれ,これらがやがて頸城自由党にまとまり,高田事件を起こす。明治10年の「全国農産表」によれば,主な普通農産物の作付面積は米2万8,355町余,大豆3,335町余,粟2,077町余,稗1,581町余,蕎麦1,289町余,大麦1,023町余,小麦1,012町余,黍427町余など,農業生産額の比率は米86%,大豆3%,たばこ2%,その他9%(県史通史編6)。同12年郡区町村編制法に伴い東頸城郡・西頸城郡・中頸城郡の3郡に分かれる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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