小泉荘(中世)

平安末期~戦国期に見える荘園名越後国岩船郡のうち荒川以北の岩船郡の地で,現在の神林村・村上市・朝日村・山北町のほぼ全域が含まれる「中右記」保安元年3月23日条に「越後小泉庄相博之事,殿下初所被仰」と見える同書同年6月16日・17日・24日条によれば,当荘の定使であった兼元丸が去年冬当荘に下向中に藤原清衡が都へ送る金・馬・檀紙などを奪ったため検非違使庁に捕縛されている保安4年8月8日の右大臣藤原宗忠譲状写によると,当荘は宗忠の祖父大宮俊家以来の中御門流藤原氏の所領とされ,宗忠から長子宗能に譲られ(南部文書),永万元年3月6日宗能から子息宗家に譲られた(同前)長寛3年正月日の越後国司庁宣案によれば,当荘の本家は金剛心院で,鳥羽院庁下文によりその領有を保証されていたが(同前),文治2年2月には本家は新釈迦堂(嵯峨の清涼寺)で,中御門宗家が預所であった(吾妻鏡)延慶3年8月5日当荘は伏見上皇から中御門宗冬に返付され,さらに建武4年8月11日中御門冬定から宗重に譲られ(南部文書),預所職は南北朝期まで中御門家に伝領されたまた,正応元年12月2日の関東下知状案の「越後国小泉庄領家〈一条侍従二位家〉」は,従二位侍従一条能清であろう(米沢色部文書)当荘は本庄と加納に分かれる長承2年当荘は免田30町からなっていたが(中右記長承2年8月27日条),のち加納田を取り込んで荘域が拡大し,仁平3年小泉荘加納は荒川の北岸に及んだと思われ,同年立券状が作成されている(米沢色部文書建長7年10月24日付関東下知状案)鎌倉初期,平姓秩父季長は小泉荘地頭に補せられ,建永年間頃に嫡子行長に本庄,次子為長に加納を譲ったとみられる(米沢色部文書)行長の後裔は鎌倉期に小泉氏,南北朝期以降は本庄氏を称し,鮎川氏・小河氏・大川氏・立島氏などの庶家を分立しながら当荘を支配し,守護上杉氏・守護代長尾氏と数度にわたり対立したが,最終的には上杉氏の家臣となった一方,為長の後裔は色部氏を称し,加納の色部条・牛屋条・粟島を所領としたこのうち色部条・粟島は色部氏惣領家に伝領され,牛屋条は文永7年8月25日庶子に分割し,宿田氏・牛屋氏の庶家が分立したが(米沢古案記録草案),室町期になると加納の地全域が再び惣領家のもとに集中した(光西寺所蔵文書)戦国期には上杉氏に服属し,本庄氏より上座に据えられた

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7309470 |