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三条町(近世)


 江戸期~明治22年の町名。蒲原郡のうち。当地は須頃島にあった中世の三条島ノ城の城下に包含されていたとみられるが,開発は元和2年の三条城移転を経て,同9年の三条藩廃藩後の幕府領時代に城廻りの空屋敷や畑地を興したことに始まる。この開発は三条城廃城後の寛永~正保年間に,かつての城下三条町(三条村を経て裏館村と改称)や周辺農村から移った小前層を中心に行われたが,河川合流部に立地することから次第に商人も増えて町場となる。裏館村明細書によれば,この頃には三条新田または三条出新田と呼ばれ,承応元年頃から三条町地子を納入し,実質的に町場と認められていた(三条市史資料編3)。本村の三条村(のちの裏館村)からの独立は万治元年の検地からで,この検地帳(三条市立図書館所蔵)には「御検地帳写三条町」と表紙にあるが,裏館村明細書では「三条新田田畑検地帳」であったと記す。元和2年三条藩領,同9年幕府領,慶安2年からは村上藩領。村高は,万治元年検地159石余,「元禄郷帳」150石余,「天保郷帳」249石余。万治元年検地帳によれば,反別は田7畝余・畑21町余,畑のうち9町余が屋敷で,合わせて318軒,部分的に同規模の間口・奥行の屋敷地がみられ,また名請人の肩書には近世三条町の主要な町名の上町,大町,一ノ町~五ノ町,寺小路,八幡小路,鍛冶町などがみえ,高外として代官屋敷・大庄屋屋敷・町年寄屋敷・蔵屋敷や極楽寺など寺屋敷も記される。当町は信濃川・五十嵐川舟運の河岸で,また北国街道・三国街道の枝宿でもあり,三条宿から地蔵堂・大面・燕・加茂・今町の5宿へ継立が行われた(三条市史上)。蒲原郡・三島【さんとう】郡の村上藩飛地領4万石の中心地で,元禄元年に村上藩三条陣屋が,同3年に東本願寺掛所(東別院)が設置され,陣屋町・門前町として発展し,この頃すでに2・7の六斎市が開設されていたとみられる(同前)。宝暦11年の家数544(本百姓409・水呑119・寺8・社司2など),人数2,737(三条市史資料編3),文政6年の家数714(本百姓509・水呑188など),人数3,972(同前)。隣村の一ノ木戸村などが高崎藩領となった享保2年以降,一ノ木戸村・田島村と町場争いがたびたびおきたが,三条町側が商業的既得権を認められ保護される。嘉永4年の諸職人の家数は,酒屋16・室屋13・質屋11・下大工1軒役4・同半軒役50・指物師22・檜物師1・桶屋14・鍛冶屋44・錺屋13・塗師屋7・紺屋7・木挽1軒役4・同半軒役10・猟師1(同前4)。天保9年の町名には,町通筋に上町・大町・一ノ町・二ノ町・三ノ町・四ノ町・五ノ町・鍛冶町があり,八幡小路・本寺小路・蔵小路・寺町小路など小路名のついた町名も見える(同前)。町政は複数の町年寄と各町の町代などによって行われた。文政11年の三条地震では死者114人,焼失763軒・潰家448軒を数える(同前3)。八幡小路の北側に鎮守八幡宮があり,境内に良寛詩碑(初建立は天保6年)がある。寺院は,真宗大谷派正楽寺,日蓮宗実盛寺,真言宗泉薬寺などがある。明治元年8月新政府軍の三条進出により,三条民政局が設置されたが,同2年に加茂町に移る。明治初年の史料では,当地は三条上町・三条大町・三条一ノ町・三条二ノ町・三条三ノ町・三条四ノ町・三条五ノ町・三条六ノ町・三条鍛冶町・三条八幡小路・三条古城町・三条門前町・三条常盤町・三条相生町・三条日吉町の15町に分けて記され,三条の名はその総称として各町名に冠称されている。明治5年東本願寺別院を仮校舎として三条小学校開校。同6年五十嵐川に三条橋(のちの嵐川橋)架橋。同8年五ノ町河岸に長岡~新潟を結ぶ定期蒸気船が就航。同12年南蒲原郡に属し,同郡役所が開設。同13年上町からの出火により周辺村を含めて2,700戸を焼失。同19年先の15町が合併し,再び三条町となる。同22年の戸数1,716・人口8,995。同年市制町村制施行による三条町となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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