鉄砲町(近世)

江戸期~明治22年の町名。明治期には糸魚川【いといがわ】を冠称。江戸期は糸魚川町の1町。新田町の南がコの字形に曲がり,その南の信州街道沿いの町。寛永年間,荻田主馬が糸魚川(清崎)城代となった頃から足軽町・職人町を形成していた。承応元年新田町とともに町立てされた新町で,南端山の井神社までの道路(大道)の両側に家並みが続く。翌2年検地帳によれば,家数38,うち下級武士と足軽14・百姓日雇22など。延宝7年足軽町水帖によれば,高は屋敷地のみで,田畑は書き上げられていない。高は,「天和高帳」9石余,「旧高旧領」11石余。安政5年の当町の人数264。火災の多い糸魚川でも,明治以後は大火に見舞われず,古い家並みが現在も残る。中央東側に代々二宮大学を名のる神官の家があり,二の宮の松と呼ばれる大木があった。明治21年の戸数76。同22年糸魚川町鉄砲となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7312455 |





