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長岡城下(近世)


 江戸期の城下町名。古志郡のうち。長岡藩の城下。慶長10年以前から堀直竒が城郭建築の計画をもち,奥村氏に縄張りを命じ着工したが中断し,元和4年牧野忠成が入封して引き継ぎ完成させた。栖吉川と信濃川に取り囲まれた自然の要害の地に苧引形兜城の城郭となった。同7年武家屋敷割,同8年町割が設定された。元禄4年図では侍屋敷439,給人・大工・木挽・塗師・鉄砲張屋敷6,家中下屋敷15,神社7,寺25,山伏2,足軽屋敷238,町同心屋敷25,中間屋敷64,町人地は町屋639,瞽女・座頭屋敷9,大工町69と記される。なお,千手町・新町は百姓地のため記載されずとある(長岡の歴史)。安永9年写御家中屋敷町附并知行附では,武家屋敷地として,城内・坂ノ上・高橋小路・玉蔵院町・長町・長町裏町・栄凉寺塀下・本袋町・袋町西町・同中町・同東町・四郎丸・弓町中町・同東町・同西町・台所町・台所町下町・今朝白上町・同下町・同裏町・千手下町・同上町・馬場町・観音堂近所・荒屋敷・西神田上町・同中町・同下町・間ノ道・七軒町・弓町長屋・坂ノ上長屋・千手上町裏町・町宅付けが記され,中に家中屋敷が書き込まれている(同前)。また,上足軽町・下足軽町・観光院町・中間町・殿町・長柄町・船江町なども武家屋敷地として名を連ねてくる。元和8年町人地は表町が5か町,裏町が4か町,神田町が4か町,ほかに柳原町・上田町・渡里町・呉服町・関東町・大工町に分けられていた。このうち表町・裏町・渡里町を中心にして町割が行われ,これに呉服町・関東町が直交し,北は神田町の通りを基準にして整備されていったという。ほかに桶屋町・鍛冶町・山本町なども町人地として見えてくる。町家の借家層の増加が享保年間頃からみられ,階層分化の進行があった。正徳2年町家数1,287うち借家667,文政元年の町家数1,347うち借家918(同前)。享保13年三蔵火事,文化8年上田町火災,同13年表三ノ町大火,天保15年俊治火事などの大火と文政11年には三条地震に見舞われている。慶応4年戊辰戦争では当城下が激戦地となり,ほぼ全焼している。明治4年廃藩置県により城下町は廃止され,地内は旧城下各町に分かれ,長岡の地名はその総称として存続することになり,各町は明治初年から明治43年まで長岡を冠称した。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7312923