禰知(中世)

室町期から見える地名。越後国頸城【くびき】郡のうち。南北朝期の康永4年2月,南朝方に与して越後守護上杉憲顕に反し,長尾清景に討伐された「越後凶徒禰智大炊助」は当地を本貫とする者と推察され(村山文書),当地名もこれ以前にさかのぼるものであろう。根知川に沿う谷あいを根知谷と称するが,谷の南東は信濃国に接して古くから信越国境紛争が絶えず,戦国期には根小屋城・栗山城・上城山城など(総称して根知城という)の山城が築造されて,上杉氏がその勢力維持と防備の拠点とした。信濃方面への出入口として禰知口ともいったことは,宝徳元年~寛正4年のものと推定される7月4日付上杉房定書状に「去月廿五日於禰智口合戦」とあることによっても知られ(反町村山文書),永禄12年と推定される8月23日付上杉輝虎書状によれば「信州口替儀候ハゝ,早々注進尤候,従禰知口信州へ通用之由候」と,この方面の警戒に意を用いている(大河原辰次郎所蔵文書/越佐史料)。上杉謙信は永禄8年に信濃国人村上義清を根知城に置いたという(糸魚川市史)。御館の乱後には天正8年と推定される8月11日付仁科盛信書状に「長生寺根知へ可被罷越事」とあるように渋田見盛種が当地に入った(信濃史料14)。ついで同10年6月には長尾市右衛門に「根知在城」が命じられたが,間もなく西方房家に申し付けられ,同11年9月には房家はこの功によって上杉景勝から信濃の仁科一跡を与えられている(上杉年譜・歴代古案/越佐史料)。また,同11年7月に糸魚川新城が築かれた際には,その材木・薪は「根知領」から供給されている(歴代古案/同前)。慶長3年上杉景勝の会津移封,堀秀治の春日山入封に伴い,その一族堀清重が根知城に入り,西浜一円を支配した。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7313845 |





