村松町(近世)

江戸期~明治22年の町名。蒲原郡のうち。江戸期は村松藩の陣屋所在地。古くは北陸往還路に発達した宿場町であったが,六斎市・馬市が開設され在郷町としても発展した。はじめ村上藩領,寛永19年幕府領,正保元年からは村松藩領。高は,「元禄郷帳」1,330石余,「天保郷帳」1,765石余,なお,「旧高旧領」では村松上町736石余・村松下町779石余・村松城町249石余とある。陣屋は正保元年年寄役堀定右衛門によって縄張りが行われ,上杉氏の陣屋跡に陣屋を置き,滝谷川を陣屋の外周に引き入れ外堀の役割を持たせた。町は大きく侍屋敷と町人町に分かれていた。上級家臣の屋敷は大手門の北西部の丸の内に置き,大手通り・本町通り・本堂門通り・作事門通り・搦手通り・中丁・馬場丁・四ツ屋丁・鑓場丁・源太小路があった。陣屋の南本堂門の外側の西丁には主として扶持米取の侍が住み,徒士町・長柄町・本堂町・片町・横丁があった。さらに町の東部に町屋を包囲する形で東丁があり主として足軽が住み,根木町・鍛冶丁・上裏町・下裏町があった。また,大手門外に長屋,搦手門の外側には桐林・六軒丁などがあった。町屋敷は西南から北東に向かって,春日町(新城町)・城町・上町・中町・下町・横町・新田町と続き,下町の東に裏町,横町と新田町の裏に袋町,上町の裏に裏寺町,城町の東上町の南に寺町があった。町は藩の町奉行の支配下に置かれ,大庄屋・肝煎・組頭制を採り,当初は下町組・上町組の2組に分かれていたが,貞享年間の火災後は城町組が設けられ3組となった。下町組(下町・横町・親方小路・高札小路・下裏町一部・袋町),上町組(中町・上町・裏町・新町西部・寺町),城町組(城町・新城町・搗屋小路・薬師小路・春日小路)となっており,明和5年所々村名覚(村松町史資料編3)によれば,大庄屋田中金之助・上町肝煎喜右衛門・下町肝煎幾右衛門・城町肝煎佐次兵衛,ほかに春日町肝煎九十郎・新田町肝煎佐次左衛門の名が見える。家数は,元禄絵図に藩士340・町方208,宝暦絵図に藩士459・町方303,寛政絵図に藩士581・町方349となっている(村松町史)。町は度々大火に見舞われたが,宝暦9年の火事は江戸期最大の被害をもたらし,英林寺文書には476軒焼失とある。嘉永6年には約190軒,明治元年の戊辰戦争では戦火により,家中屋敷・御殿など町のほとんどの地域が火災に遭っている(同前)。元来宿場町であったが,規模としては小さく,特権商人も存在しなかったという。商工業は株仲間を中心に営まれ,酒造株・室屋株・紺屋株など旧来の株,幕末には結城株・質屋株・米屋株があった。特産物には古くから村松茶が有名であり,ほかに文政年間以降盛んになった製筆,村松結城縞,文政12年出羽国生まれの道川忠治によって始められた村松焼などがある。神社は,日枝神社(山王大権現)・住吉神社・春日神社・十二神社・稲荷神社・愛宕神社・菅原神社・秋葉神社・直央神社。寺院は,真言宗正円寺・正福寺・竜蔵院・金剛院。寺院は曹洞宗英林寺・清水寺・安養寺,日蓮宗本行寺・真如寺,浄土真宗本願寺派円満寺,真宗大谷派長養寺・西住寺・浄誓寺,浄土宗安楽寺。明治元年長養寺を借用して藩の学問所が設置され,同2年自彊館となる。同11年奥畑義平などによって金蘭社が設立され,自由民権思想が広められた。同12年中蒲原郡に所属。同21年の戸数1,474・人口7,577。同22年市制町村制施行による村松町となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7315805 |