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高木村(中世)


 南北朝期に見える村名。新川【にいかわ】郡堀江荘のうち。高木村は享徳4年7月11日の「祇園社領当知行目録」に「越中国堀江庄同高木」と記されており(祇園社記雑纂/県史中),その所在地は康治元年10月の「宮道季式寄進状」に見られる四至内ではなく,のちに堀江荘に併合されたのではないかと考えられる(祇園社記/県史古)。貞和5年正月11日の「足利尊氏寄進状」に「寄進 祇園社,越中高木村(大鷹入道跡)事,右所寄進之状,如件」と見えるのが初見。同年3月6日の「幕府執事施行状案」によれば,執事高師直が越中守護桃井直常に対し,高木村を祇園社執行顕詮代に沙汰付するよう命じているが,当時諏訪松犬丸が下地を知行しており,桃井直常も高師直への反発からか幕命の遵行をしぶっていたらしい。5月25日には桃井と親しい「幕府引付頭人上杉重能奉書」が桃井直常宛てに出され,再び祇園社に下地を打ち渡すよう命じられた。9月22日の「藤原政儀下地打渡状」でようやく高木村は顕詮代に打ち渡されている(八坂神社文書/県史中)。「社家記録」によれば,翌観応元年2月14日以来,前給主諏訪方の石瀬二郎との間に交渉が見られ,3月12日以降は,高木の国役についての問答が散見する。7月7日条によると,高木堂地は2反であり,うち1反が修正田,1反は公事免であり,鬼丸に給されていた。6月9日条によると,祇園社に逗留していた高木の百姓右馬允が,越中へ下向するに際して秋年貢の請文を提出している。同25日には正禅法橋たちが信濃善光寺・白山・立山などの参詣の費用として,高木の春成用途の中から1貫文を現地で借りたい旨の書状を右馬允に与え,その代わりは京進する仏名神事の用途の中から返済するとしている。10月18日正禅たちは参詣を終え,高木から帰洛している(県史中)。その後,高木村の知行は困難となっていったらしく,貞治2年11月14日の「幕府引付頭人奉書案」によれば,上高木村などへの伊丹・須田氏らの濫妨を止め,下地を顕詮代に沙汰付するよう命じており,また,同3年5月4日の同奉書案でも,土肥氏の押妨を停止し,堀江荘半分を雑掌に渡すよう命じている(八坂神社文書/県史中)。在地武士の侵略が激しかったことがうかがわれる。応安3年4月5日の「沙弥是鎮遵行状」によると,上高木村を祇園社に打ち渡すよう夏見某に命じている(八坂神社文書/県史中)。夏見甘土肥氏と交渉し,応安5年11月11日には堀江南方の年貢10貫文などを京上させることに成功した。しかし,夏見への謝礼等によって,その年貢も「正体なき」有様であった(社家記録/県史中)。年未詳であるが,このころと思われる8月21日の幕府奉行人松田貞秀宛て権少僧都顕深書状によれば,高木村は領家方に属しているが,他の村々とともに「為御奉行度々被成御教書之間,雖付進守護方候,猶不事行候,於今者,為一村社家方無知行候」とあり,知行でもなくなっていたものと思われる(八坂神社文書/県史中)。応永3年10月には堀江荘と高木村の役夫工米免除の要請が出され(役夫工米奉行衆国分注文/八坂神社文書),同年10月28日の「幕府奉行人連署奉書」で高木村の役夫工米催促の停止が守護畠山基国に命じられ,同年12月3日の「守護畠山基国施行状」で守護代遊佐長護にその旨が施行された(八坂神社文書/県史中)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7319847