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加賀国


国郡制施行当初は越前国に属し,そのまま奈良期から平安期初頭を経過した。中央部を流れる手取川を境界として,北が越前国加賀郡,南が越前国江沼郡に分けられており,越前国に所属した時期の概況は,天平3年2月26日の越前国正税帳,天平5年閏3月6日の越前国郡稲帳,天平12年の越前国江沼郡山背郷計帳(以上,正倉院文書)などによってうかがうことができる。平安初期の弘仁14年2月3日の太政官奏(類聚三代格)によれば,当時の越前守紀末成の建議に基づいて,立国のことが奏請され,同年3月1日に,越前国北半の加賀・江沼2郡を割いて,加賀国が立国された(日本紀略)。律令国家としては最後の一国建置である。初代国守は越前守紀末成が兼務しており(類聚国史194,弘仁14年12月8日条),立国に伴う措置として,同年6月4日に,江沼郡の13郷・4駅のうち,北半の5郷・2駅を割いて能美郡を置き,加賀郡の16郷・4駅のうち,南半の8郷・1駅を割いて石川郡を置き,4郡構成としている(日本紀略)。越前国からの分国の理由として,越前守紀末成は,とくに北辺の加賀郡が国府から遠く離れており,途中に「四大川」があって交通が不便なこと,郡司・郷長による私富蓄積の違法行為が顕著で,逃散する民衆が多いこと,さらに,管轄範囲が広大すぎて国司の巡見に障害が多いことをあげている。立国当初の加賀国の等級は中国であったが,2年後の天長2年1月10日の太政官符(類聚三代格)によって,上国に昇格している。続いて,承和年間の律令体制の動揺の激化に伴う対策の一環として,承和8年9月10日には,勝興寺が加賀国分寺に転用されている。北西に長い海岸線をもち,対馬海流と季節風に向き合うため,日本海の対岸諸国から人や物資の来着の機会が多く,渤海国使の来着のみでも,越前国に属していた奈良期に3回,立国後の平安初期に3回を数えている。この時期の有力寺院や貴族層による墾田の占有は,越前国や越中国に比して低調であり,天平勝宝7歳に東大寺に施入された江沼郡(立国後は能美郡)幡生【はたう】荘(仁平3年4月29日東大寺諸荘園文書目録/平遺2783),宝亀11年12月25日の西大寺資財流記帳(寧遺414頁)に見える江沼郡(能美郡)本堀【もとほり】荘,延暦4年8月28日に死去した大伴家持が加賀郡に占有していた墾田100余町(延喜14年4月28日三善清行意見封事十二箇条/日本思想大系8),弘仁9年3月27日の酒人内親王家施入状(正倉院文書/平遺45)によって東大寺に寄進された加賀郡(立国後は石川郡)の横江【よこえ】荘などが知られるにすぎない。「延喜式」によれば,加賀国には,石川郡の白山比咩神社をはじめとする小社42座が官社として登載されている。国津は能美郡の比楽【ひらか】湊,京への行程は,陸路の場合,上り12日,下り6日,海路は8日。調として綾・帛・絹,庸として白木韓櫃・綿・米,中男作物として紙・茜【あかね】・紅花・熱麻【にお】・呉桃子【くるみ】・荏油【えのあぶら】・海藻・雑魚腊,交易雑物として絹・牛皮・漆・荏油・樽,年料舂米として450石と糯米【もちごめ】10石,年料租舂米として1,300石を京送する規定となっていた。北陸道では舂米運漕国の東限に位置する。「和名抄」からの推定田積は1万3,766町(近世以降の面積値に換算すれば1万6,519町),推定人口は7万1,664人,推定人口密度は46人(1km[sup]2[/sup]当り)とされている(日本歴史地理総説,古代編)。摂関政権の段階の寛弘9年9月22日に,加賀守源正職の非法32か条を「百姓等」が愁訴するという闘争が展開されたが,国守側の切り崩しにあって,同年12月9日に,失敗に終わっている(御堂関白記)。平安中期以降の加賀国で立荘年代が確認できる最古の荘園は,寛治3年10月の加賀国司庁宣(醍醐雑事記/平遺1281)によって,醍醐寺領として奉免された加賀郡得蔵【とくくら】荘であり,このほか,平安末期までに立荘が確認される荘園には,江沼郡熊坂荘・額田【ぬかた】荘,能美郡板津【いたづ】荘(郡家【ぐうけ】荘)・石内【いわうち】保・山下荘,石川郡是時【これとき】荘,加賀郡大野【おおの】荘・金津荘などがあげられるが,概して立荘年代が遅いこと,したがって皇室領荘園の比重が大きいこと,大規模な氾濫を反復する手取川扇状地の外に位置していることに特色がある。こうした平安後期の加賀国の平野部の再開発を主導し,勧農行為の主力となったのは,奈良期から平安初期にかけて,この地域の勧農権を掌握していた北加賀の道氏,南加賀の江沼氏ではなく,新たに任用国司として着任し,留住して郷司職を入手した外来勢力であった。江沼郡の大江氏(大治2年8月加賀国江沼郡諸司等解/平遺2106),石川・加賀郡の加賀斎藤氏(尊卑分脈)が,それを代表する勢力であり,特に石川郡の拝師【はやし】郷を開発本領とした林氏とその庶流,同じく石川郡の富樫【とがし】郷を開発本領とした富樫氏の,2系の加賀斎藤氏が有力化し,加賀の在地領主勢力を代表するようになる。この在地領主勢力と厳しい対立関係にある上層百姓が,抵抗の拠点としたのが,加賀国で最も有力な仏神の白山宮加賀馬場である。国衙と在地勢力に対抗する上層百姓の寄人化運動の核となり,巨大な衆徒・堂衆・神人集団を擁するようになった白山宮加賀馬場の平安末期の様相は,長寛元年に原型が成立したとされる「白山之記」(白山史料集・日本思想大系20)に詳細に伝えられており,その在地領主勢力との抗争は,仁平4年9月の林光家の赦免をめぐる紛争に,その一端が示されている(兵範記・台記)。また,国守・目代に対する闘争としては,安元2年夏から翌安元3年夏にかけての大規模な強訴運動が著名である(平家物語・玉葉・百錬抄)。治承・寿永の内乱前夜の加賀国は,平氏一門の平頼盛の知行国となっており(公卿補任,建仁2年条),養和元年8月23日には,能登・越中の反乱軍に同調した白山宮加賀馬場の衆徒・堂衆・神人集団や林氏・富樫氏などの在地領主勢力によって構成される「加賀国住人等」が,知行国主平頼盛・国守平為盛の支配を排除して,越前国に進軍し,平氏派遣の追討使の「官兵」を撃退している(山槐記)。この反乱軍は,翌々寿永2年5月になって,越後から西進してきた木曽義仲の軍団と合流し,礪波山(倶利伽羅【くりから】峠)・篠原【しのはら】の合戦に勝利を収めて(平家物語),同年7月28日に京を占領するが(玉葉・吉記),半年後の寿永3年1月に敗北する(吾妻鏡)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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