浅水(中世)

鎌倉期から見える地名。越前国足羽北【あすわきた】郡のうち。麻生津・麻生水・浅宇津などとも見える。白山馬場を開いた僧泰澄の出身地として著名。「泰澄和尚伝」や「元亨釈書」巻15・「源平盛衰記」巻29などによれば,泰澄は「麻生津」の人三神安角の子で,母は伊野氏。その母が腹に白玉の入る夢を見て懐妊し,白鳳22年6月11日誕生したのが泰澄であるという。その後,「太平記」巻20によれば,新田義貞の元へ向かった勾当内侍は,越前杣山に下着したが,そこで義貞が足羽へ向かったことを知り,「杣山ヨリ輿ノ轅ヲ廻シテ浅津ノ橋ヲ渡」った所で,義貞自刃の報を聞いたとある。また,同書巻27上杉畠山流罪死刑事の段に「江守・浅生水・八代庄・安居・波羅蜜ノ辺ニ居タル溢者共……又浅生水ノ橋ヲハネハヅシテ,迹ニモ敵充満タリ」とある。この間,暦応2年12月の得江頼員軍忠状によれば,越前南朝方掃討戦に参加した頼員は,同年3月越前に参着,以後各地を転戦し,9月15日には「押寄浅宇津之処,蕗野寺城并ニ岡城凶徒等懸出之間,致合戦,焼払蕗野寺城麓訖」という(尊経閣文庫所蔵得江文書)。下って戦国期,大永元年9月26日付の水落祝権大夫宛小島景増書状に「浅水之金橋出銭之事ニ付て,従町衆祝屋敷江申懸由候」と見える(瓜生守邦家文書)。「朝倉始末記」巻4によれば,元亀元年4月朝倉景恒の籠る金ケ崎城を織田信長軍が包囲,金ケ崎城を救援すべく朝倉義景も当地まで出陣した。また,同書巻6には,天正2年2月の一揆蜂起の際,「大野北袋・南袋者,足羽・志伊庄・河北ノ者,本覚寺・専修寺引率,都合五万余騎。先陣已ニ浅水ニ付バ,後陣ハイマダ北ノ庄ニ支タリ」と見える。以降,当地も織田信長の支配圏に入ったが,翌天正3年10月12日付の府中三人衆連署大滝神郷紙座定に「上者木目を境,下者浅水之橋を境,東者境目,西者海端を境」とあり,この間の諸役が免除されている(大滝神社文書)。なお,延徳3年春冷泉為広が越後へ下向した際の日記で,越前国府から北庄までの行程を記した部分に「アサウヅ〈橋,里〉」と見え(県史研究3),謡曲「安宅」には「気比の海,安居久しき神垣や,松の木芽山,なほ行く先に見えたるは,杣山人の板取,川瀬の水の麻生津や,末は三国の港なる」とある(謡曲集下)。越前国絵図には「浅水村」1,732石余とあり,この高には浅水二日町村・三十八社村・下江尻村出作共・上江尻村を含むと考えられる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7329032 |





