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糸生郷(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える郷名。越前国丹生北郡のうち。正中2年正月23日の某袖判下文に「越前国丹生北郡糸生郷内大谷寺本馬免」「糸生郷山方内宿堂」「糸生郷杖立村」などと見え,享禄2年5月の越知山大谷寺神領坊領目録で「山方」とされるものに,上中野村・下中野村・老原村・宿堂・北畑・水無・硫黄カ谷・別畑村・天谷上村・湯屋谷・牧村・二屋などがある。「山方」がほぼ糸生郷内を指すものとするならば,同郷の郷域は現在の朝日町上糸生・下糸生のみならず,越知川およびその支流天谷川の流域,さらには大味川上流域など現在の織田町・福井市の一部までも含む一帯に比定される。室町期には幕府奉公衆の千秋氏が当地地頭を称し,文安6年大谷寺の神田・神木を強引に売却するなどしたため,大谷寺衆徒らは堂舎を閉門し離山のうえ40余か条にわたる千秋氏の非法を訴えたが,寺家側の思うように事は運ばず,対立は続いた(以上,越知神社文書)。しかし,長禄2年11月25日将軍足利義政が「越前国糸生郷山方〈千秋宮内少輔範安跡〉」を北野社に寄進しているので(北野神社文書),これまでに千秋氏の地頭職は没収されたものと思われ,この後北野社の糸生郷山方支配は文明5年まで確認される(北野神社文書)。なお「蔭涼軒日録」の寛正5年6月5日条によると当郷の「荘主職」は相国寺が有し,勝智院追善料として年貢銭95貫800文余・米204石3斗余が催促されている。また,文明3年8月の山方分年貢公事注文(越知神社文書)によると,山方の地は21の名に編成され,炭・薪以下種々の年貢・公事を負担していた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7329387