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越前保(中世)


鎌倉末期~室町期に見える保名越前国のうち京都祇園社感神院領であることから感神院保とも称されているこれは,祇園社から見れば越前に所在する所領ということで越前保と呼ばれ,在地の国衙在庁にとっては感神院の所領ということで感神院保と称されたためと推定されるただし当保がどこに所在したかは不明その理由は,当保を構成した土地が一地域に集中してはおらず,散在する小規模な耕地をいくつか組み合わせることで当保が編成されていたからと考えられる保と称されていることから,もとは越前国衙の支配を受ける国衙領であったわけであるが,13世紀頃に祇園社別当分の所領として祇園社に寄せられたらしいかかる措置は越前の分国主の意思によるものであろうが,その命令主体については未詳「八坂神社記録」によれば嘉元3年に至って,延暦寺僧で祇園社別当を勤めた仲覚法印の命により,当保は祇園社の「九月九日御節供料所」に寄付され,祇園社執行の晴喜法印に保司職が委ねられている晴喜法印は保司として当保を知行することにより,九月九日御節供として赤飯13膳と酒の小瓶子3器を用意する義務を負ったのである下って康永3年になり,晴喜法印は当保を孫弟の晴賀法眼に譲与するが,当地の不知行化は進んだものと見られ,貞和3年8月29日条によると,八坂社感神院の別当得分注文の諸社領のうち「当時所済不存云々〈頗有名無実也〉」の1つとして見えるこれに伴い,晴賀法眼は当地を質として近江日吉社から借銭をしたため,観応元年6月8日条ではこの契約をめぐって質券であるか沽却であるかについて中御門師治・中原章世が意見を述べている日吉二宮彼岸結衆は当保の知行を十方院叡運注記に請負わせるが,十方院は祇園社方代官であり,守護代でもある八木氏を預所として認めず,双方の間で訴訟となりかけたが,守護細川兵庫助などの口入により落着したものと推定されるまた叡運は年貢として毎年12貫文を10か年にわたって納入する契約であったが,契約を無視して年貢銭の未進が続いたため祇園社執行顕詮法印は9月9日御節供料の調進を,本主である晴賀法眼に沙汰させるという措置をとった一方晴賀法眼より当地を与えられたとする日吉社は,観応2年4月日の日吉二宮彼岸結衆等言上状で守護方と十方院叡運の所務押領を訴えており(祇園執行日記裏文書/大日料6‐14),翌3年7月日の日吉二宮雑掌定勝言上状にも同様の訴えが見える(同前/大日料6‐16)この結果は不明であるが,「八坂神社記録」の応安5年11月10日条に,越前保年貢として「絹六到来,九貫四百五十文也,所残五百五十文,以用途可沙汰云々」とあることから,八坂社の支配が回復したものと推定される室町期の応永3年11月5日の造宮所御教書案と,これに伴って作成された同年と推定される役夫工米奉行衆国分注文には免除地として「越前国 感神院保〈号越□(前カ)保〉」とあり,当地の段銭は京済されたことが知られる(八坂神社文書)これを最後に当保に関する史料は見られなくなるが,これは守護の領国支配の展開にともなって,国衙領が守護領の根幹部分として押領されたことによるものと推定される




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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