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小山荘(中世)


 平安末期~戦国期に見える荘園名。越前国大野郡のうち。大治2年12月27日に左中将(のち参議)藤原成通は僧永真より大野郡内の私領を寄進されているが(京大一乗院文書/平遺2114)。こうして集められた成通の私領は,長承2年6月14日の官宣旨案(醍醐雑事記/同前2278)によれば小山郷内舌村・木本小山村・小山坂尻村・左開村,川原郷内折立村・川原村・味美村,有羅河内・佐佐熊足河内・穴馬河内の数百町に達し,人々の耳目を驚かせたという。この成通私領は現在の大野市南部を中心に,西は足羽【あすわ】郡美山町,東は大野郡和泉村に及ぶ広範な地域であった。それから十数年後の永治~久安年間に,この成通私領は鳥羽上皇創建の安楽寿院の荘園群の1つとなり,小山荘として立荘されたと判断される。安元2年2月の八条院領目録のうちに安楽寿院領として「越前国 小山」が見えるのが荘園としての初見である(山科家古文書/平遺5060,高山寺古文書)。成通の母(藤原顕季娘)と鳥羽皇后藤原得子(美福門院)の父長実が兄弟であったため,安楽寿院を本家とする荘園となり,成通は領家職を得たものとみられる。なお前記の成通私領のうち川原郷はのち紙山保に含まれており,小山荘には属さないが,本家・領家は小山荘と同じであったと判断される。鎌倉期,建保4年頃の地頭は北条義時ではなかったかと推定される(古筆写)。領家職を相伝した成通子孫は,次第に所領を維持することが困難となり,成通の孫経通は文暦年間小山荘内黒谷郷を春日社八講料に寄進した(書陵水野家文書)。そのほかの郷や村についても成通子孫の手を離れるものがあり,嘉元4年以前の状態を示す昭慶門院所領目録安楽寿院領小山荘の記事は領家の状況をうかがわせている(竹内文平氏所蔵文書)。それによると荘は大別して,円雄法印が本家安楽寿院領支配者に300貫を納入して知行する「小山荘」と,それとは別に据【しがらみ】郷・東小山東縁西縁・佐開・西小山・黒谷郷内飯西,用意縁・井島という荘内の地からなっており,据郷以下の地はそれぞれ坊門局・東山校(快か)助法印,時兼・持明院保藤・北畠師重,尊道,北畠師親が知行していた。円雄知行分の「小山荘」とは前記の据郷から井島を除いた舌・黒谷・深江・木本・穴間・秋宇・佐々俣などの地を指すものと考えられる。円雄は成通の孫経通の娘の子であり(尊卑分脈),弘長2年4月に鷹司伊頼から興福寺で修行する資縁として荘内黒谷郷を与えられていた(書陵水野家文書)。また東小山東縁西縁を知行する校(快か)助も経通の孫の快助とみられるから(尊卑分脈),経通が領家職を春日社に寄進したのちも,黒谷郷を中心とする地はその子孫が実質的な支配権を保持していた。こののち円雄知行分は快助分と併せて,円雄の弟興福寺浄名院清憲(三会定一記/大日本仏教全書)に引き継がれた。春日社は成通や経通が小山荘全体を支配していた時の権利を継承するとして,荘全体の支配を主張したらしいが,据郷など分割知行の地は実質的に支配できなかった。興福寺衆徒が文永6年と正応年間に小山荘について強訴しているのは(京大一乗院文書),この問題と関係があろう。また現地では地頭伊自良氏が知られ,浄名院と激しく対立していた。嘉暦3年以前に地頭と領家は「和与中分」をおこなったことが知られる。嘉暦3年2月9日付の地頭書状に「小山庄領家方木本【このもと】・穴間以下郷々」と見えるから,郷を単位とする下地中分がなされたものと考えられ,その後の地名として阿難祖【あどそ】領家方・同地頭方,木本領家方,同地頭方,森政領家方・同地頭方,平沢領家方・同地頭方が知られるのは,この時の下地中分に基づくものと判断される。浄名院支配地以外の荘内の地名にはこうした区分がみられない。この和与の後,預所が地頭方の下地を侵犯したとして争いが起こり,嘉暦3年2~3月に本所の指示によって和与がなされた(同前)。その和与の条件は,荘内の穴間上下・秋宇・佐々俣・木本郷は95貫文の地頭請所とする,荘内の舌・黒谷(深江に在り)・新宮地・飯雨については地頭代の推挙する大輔房重英に預所職を5年間宛行う,悪党大納言房は地頭として退治する,というものであり,悪党の活動が和与を促進したのであろう。室町期については永享12年4月に春日社代官の長栄が,農民の差出に基づいて郷村ごとの田数や年貢を記した春日社領越前国大野郡小山庄田数諸済等帳案が伝えられている(天理保井家古文書)。この帳には舌郷・黒谷・深江郷・飯雨村・院内・縁新宮地郷・西小山郷・井島郷・佐開郷・木本郷・上穴間・下穴間・上佐々俣郷・下秋宇のそれぞれの領家方と,紙山保の折立郷・河原郷が記されている。このうち舌郷から縁新宮地郷までが,この時まで春日社の支配が続けられていた地であった。すなわち藤原成通・経通・円雄・浄名院と伝えられた所領のうち,嘉暦3年に地頭請所とされた地を除く,主として大野盆地南西部,赤根川流域の舌・黒谷を中心とする地を春日社は支配していたのであり,舌郷と黒谷については「御当知行根本之郷」と注記されている。永享12年には不知行の郷村も含めて農民より指出を徴し,支配の再建をはかった。前記の田数諸済等帳には郷村ごとの田数(広田と公田に区別している郷村もある),年貢米,蔵付・井料などの除分,夫役,上成銭,畠分・屋敷分地子銭,作畠,大豆,呉服銭,唐苧銭,夫銭が記されている。木本郷までは田数を記しており,その総計は98町9反90歩(うち仏神田は14町5反60歩)で領家年貢米は871石余である。また郷村ごとに記された仏神田は荘内の信仰を知る手がかりを与えている。この春日社による再建策が効果をもたらしたかどうかは,史料がなく不明。戦国期の永正元年12月25日の宝慶寺領目録に「小山庄内友包村」「小山庄内今井」「小山庄内五給」「小山庄内平沢」のように荘名として見え(宝慶寺文書/大野市史社寺文書編),天文23年10月8日の洞雲寺領寄進田地目録にも「小山庄内右近次郎村」とある(洞雲寺文書/同前)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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