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河内村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。越前国大野郡のうち。「越前地理指南」は枝村として寺村を記す。「名蹟考」は「河内堂本・河内上野,右二村ニ分レ本枝不知」と記す。はじめ福井藩領,寛永元年からは大野藩領。村高は,「正保郷帳」280石余うち田方132石余・畑方148石余,「元禄郷帳」「名蹟考」ともに280石余,「天保郷帳」285石余,「旧高旧領」287石余。天和2年の越前国大野丹生足羽郡郷村高帳(土井家文書)によれば,村高280石余,夫米13石9斗5升5合・山手米7石2斗1升・用木代米2石6斗・役漆100目である。文政6年の郷中家数人別仕出帳(笠松家文書)によれば,家数72(高持45・水役25・寺2)・人数338。「大野往来」(大野市史)は産物として楊梅を記す。天保の飢饉時の死者数は天保5年10,同6年8,同7年12,同8年49,同9年3(若越郷土研究12‐4)。氏神は,住吉大明神社・春大明神社(大野領寺社記并雑記)。住吉大明神社で行われるじじぐれ祭(県無形民俗文化財)は現在地への遷座の儀式を伝えるものという。寺院は,真宗高田派聖徳寺・光照寺。聖徳寺の開基について「帰雁記」は土屋義則が西妙と号して開基となったとし,「朝倉始末記」では相州の土屋義清の子義則が越前に流浪し,その子義種が西妙と号し現在地に一寺を建てたとする。寺伝によれば,村国村(現武生【たけふ】市)に創建して松ケ谷村(現池田町)に移り,さらに現在地に寺基を移したともいう。同寺には県文化財鎌倉期の太刀(銘国宗)や,木造聖徳太子立像がある。明治4年大野県,以降福井県,足羽県,敦賀県,石川県を経て,同14年福井県に所属。明治3年の年貢率は毛付定免2割2分5厘(内倉家文書)。同4年の越前国大野丹生足羽郡郷村高帳(土井家文書)によれば,本田高280石余(物成米62石8斗5升7合),新田高6石3斗7升(物成米8斗5升7合),山手米7石2斗1升・用木役米2石6斗・雪垣代永174文3分7厘5毛・漆役178文7分5厘。「足羽県地理誌」では村域は,上村が1町20間四方,下村が2町20間四方,戸数83・人口416(男208・女208),牛17,田畑25町1反余,物産は繭・砥石・綛・楮・桑があった。同22年上味見村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7331052