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宿浦(近世)


 江戸期~明治22年の浦名。越前国丹生郡のうち。福井藩領。高は,「正保郷帳」では宿之浦と見え44石余ですべて畑方,「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」でも同じく44石余。慶長5年三田村平兵衛一族家来が関ケ原の戦後当浦に移住,のち,寛永10年平兵衛長男が新保浦の医者田辺氏の家を買い米屋を始め,米屋平兵衛と名乗った。当浦は四ケ浦の1つで,漁場などの境論が絶えなかった。特に江戸前期の新保浦との網場争論,梅浦(海浦)との鰯網場争論,文化5年からの海浦との漬場争論は何度も繰り返された。寛文元年の家数150。享保20年当浦の寺屋次郎兵衛が福井藩から組頭に任命された。同年大洪水で多数の人家が流失,翌21年には宿浦・新保浦の屋敷地境について争論が発生,境川の幅を5尺に縮めることになった。享保19年には,柴山として上山中村・下山中村に永請山していた借山について山論が発生,この山論は明治期まで続いた。このほか,新保浦との間に宝平山をめぐってしばしば山論が起きた(越前町史)。延享4年高札場設置。寛政元年の家数72・人数301,寺院3,十一面観音,反別は2町9反余・免7ツ6分,商船7・漁船8,船役銀194匁8分・海役銀107匁6分・御肴役銀85匁3分を負担している(同前)。享和3年の戸数75。文政7年の家数79・人数407。安政5年宮の下に社倉を設置。神社は気比神社,寺院は真宗本願寺派善性寺・正徳寺(万福寺),真宗誠照寺派西教寺,ほかに地蔵堂がある。明治4年福井県,以降足羽【あすわ】県,敦賀県,石川県を経て,同14年福井県に所属。明治元年福井藩は白焔方の作業場を当浦に移した。同2年当浦樽屋に今泉浦運上所出張所が設けられた。同6年正徳寺に立教小学校を開校したが,翌7年廃校となり,新保浦の開睢小学校となる。明治6年の船数は商船12・手繰船17・伝馬船29。同7年の戸数130。同10年当村真田吉左衛門と梅浦村三田村来助が通運取扱所となり,織田と福井に荷物を送った(同前)。同22年四ケ浦村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7331830