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湊村(近世)


 江戸期~明治7年の村名。若狭国遠敷【おにゆう】郡のうち。小浜藩領。幕府へ届け出た郷帳類では当村名が見えず西津村のうちに含まれているが,藩領内では独立村として扱われていた。農村であるが,江戸期には小浜城下に隣接していたため村内の一部は板屋町のうちに含まれていた。元禄3年の下中郡村控(小林家文書)によれば,村高299石余,ほかに辰ノ地改出目22石余,板屋町外高13石余,辰卯ノ御改小開斗代増3石余,午ノ起高6石余があり,家数198(公事人51,侍4,神子1,かじけ・隠居・商人130,船大工1,家大工5,牢人3,山伏1,鍛冶2)・人数1,256(男608・女631・神子1・出家15・山伏1),本物成夫米6俵余とある。「雲浜鑑」では,村高299石余うち田方154石余・畑方145石余,ほかに外高17石余,一ツ高28石余,小名として大湊・小湊・松ケ崎・中塩屋・新町・板屋町・下町・中町があり,家数256・人数1,129,寺院は浄土真宗西徳寺・唯念(然)寺・善教寺,法華宗源応寺・長応寺,臨済宗宝林寺。「若州管内社寺由緒記」によれば,西徳寺は文明年間開基,永禄9年中興,善教寺は文明年間開基,源応寺は元亀年間開基,長応寺は天正年間開基,法(宝)林庵は永禄2年開基と伝える。神社は釣姫大明神・玉津島大明神がある。「遠敷郡誌」によれば,慶応元年の調査では僧の広沢法城が教師で生徒数80(男50・女30)の寺子屋があり,明治3,4年の調査では私塾が2か所あり,1つは藤平蔵が教師で生徒数50(男35・女15),ほかに謂文堂と名付けられた塾があり教師は清水実基,生徒数98(男75・女23)。明治4年小浜県を経て敦賀県に所属。同7年西津村は公式に3町8か村に分村し,当村域も公式に独立村となるが,板屋町を除く当村域は大湊村・小湊村の2か村に分かれることになった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7334318