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脇本村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。越前国南条郡のうち。福井藩領。村高は,「正保郷帳」で田方671石余・畑方76石余の計747石余,「元禄郷帳」「名蹟考」「旧高旧領」ともに同高。「天保郷帳」は757石余。北陸街道の宿場として馬11匹と人夫12~13人を常備。大名通行の際,脇本宿への助郷役として南条郡13村,大野郡43町村,今立郡2村の計58町村があてられていた(旧県史)。当村の中山家は,代々福井藩の大庄屋で近郷46か村の取締まりにあたり,宿の本陣・問屋職も長らく勤めた。元治元年水戸浪士武田耕雲斎一党が越前国内から京都へ抜けるに際し,福井藩は宿南端の清水川の脇本橋南詰木戸門を固め,幹部は本陣で指揮をとった。藩主松平慶永も本陣にあり,事件落着に際し,本陣で諸藩幹部に抹茶を饗して労をねぎらったという(中山家文書/南条町誌)。嘉永3年の戸籍改帳によれば,村高747石余,家数70うち高持32・雑家38,人数278,また高のうち蓮光寺高17石余・常妙寺高5石余・成就寺高2石余(中山家文書)。創建年代は,成就寺が天文16年,常妙寺が弘治2年,蓮光寺が元和元年。各寺ともに檀家が少ないため,明治20年3寺は合併,日蓮宗大乗山秀香寺として常妙寺跡に建立された。なお天保飢饉では,天保5年から5年間で合計76人,多い年には27人もの餓死者を出したという。また嘉永4年1月27日に出火,60戸を焼失したという(南条町誌)。明治4年福井県,以降敦賀県,石川県を経て,同14年福井県に所属。明治初年の地租改正によれば,反別は田47町1反余・畑1町4反余(南条郡誌)。同21年は,田49町2反余・畑1町6反余・宅地3町・山林8町5反余の計62町8反余。戸口は,明治11年80・360,同21年87・360(同前)。明治6年博文校が成就寺内に開校,同9年まで近隣の教育の中心となる。また郵便局が明治7年から同19年まで開設されていた。同22年南日野村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7334881