釜額村(近世)

江戸期~明治22年の村名。八代【やつしろ】郡のうち。東河内領に属す。はじめ幕府領,のち甲府藩領,享保9年からは幕府領(市川代官所など)。村高は,「慶長古高帳」11石余,「宝暦村高帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ではともに30石余。文化初年の戸数19・人口99(男62・女37),馬3(国志)。村の規模は東西46町・南北35町ほど,東は本栖村,西は古関村・杉山村,南は杉山村および駿河国,北は中之倉村に接する。川沿いの低地では水稲,山の緩傾斜地では雑穀・芋・豆類・楮・三椏を栽培,入会山地では薪炭・堆肥作り,木材伐採を行った。良材を産した幕府の長坂御林の保護・管理を勤め,また古関・中之倉の両村とともに古関村の口留番所の関守に従事した。東の中道【なかみち】往還と西の駿州往還および富士川水運とを結ぶ駿州街道の道筋にあり,東南へは端足峠を越えて駿河国根原村で中道往還に連絡した。また駿州街道の中途の仏峠から杉山村栃代に通じる間道であるお上人道があった。神社は仁和3年の勧請という諏訪明神,寺院は金松山長沢寺などがある。明治4年山梨県に所属。同11年西八代郡に属す。地租改正前の耕地面積は田8反余・畑20町余・大縄場畑1反余,改正後の反別は田5町余・畑6町余・宅地6反余・竹藪1反余・林19町余・芝地30町余(市郡村誌)。明治22年古関村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7335569 |