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国玉村(近世)


 江戸期~明治7年の村名。山梨郡のうち。中郡筋に属す。はじめ幕府領,のち甲府藩領,享保9年からは幕府領(「旧高旧領」では甲府代官所)。村高は,「慶長古高帳」876石余(ほかに国玉領61石余),「宝暦村高帳」870石余,「天保郷帳」932石余,「旧高旧領」も同じで,うち玉諸神社領61石余。慶長6年検地によると,反別は田46町8反余・畑1町6反余・屋敷2町5反余。天保14年の村明細帳での反別は田41町1反余・畑9町6反余・屋敷2町3反余となっている。助郷は甲州街道甲府柳町宿へ人馬を出役させた。「国志」によれば,文化初年の戸数38・人口151(男91・女60),馬2。天保14年の戸数46・人口178(村明細帳)。神社は朱印高61石余の国玉明神,寺院は曹洞宗法雲寺末能満寺・青松院末長泉寺などがある。用水は笛吹川より引いて利用していた。農間仕事として男が板垣村山中へ落葉・下草・薪などを取りに出かけていた。村内には寺子屋が3か所あり,神官や僧侶が読書・習字などを教えていた。慶長6年検地によれば,地内には「前田・寺田・ほりのまへ・よこ町・一の坪・七反た・こくらてん・つかた・六反た・まへた・ふかこ・おさた・むめの木・まへ・町た・てうら・まへほりた・かまつくり・まゝ上・といつめ・つか越・かまこ・西畑・きめん・さけす・うらかへ・宮ノ西・おちあい」という小字があった。明治4年山梨県に所属。同7年国里村の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7335839