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高部村(近世)


 江戸期~明治7年の村名。八代【やつしろ】郡のうち。中郡筋に属す。はじめ幕府領,のち甲府藩領,享保9年からは幕府領(市川代官所など)。村高は,「慶長古高帳」387石余(ほかに法久寺領1石余),「宝暦村高帳」428石余,「国志」400石余,「天保郷帳」437石余,「旧高旧領」では443石余(うち竹輪八幡社領1石余・天神宮領4石余・八幡宮領2石余・清伝寺領2石余・常念寺領1石余・日光寺領4石余)。村の広さは東西11町・南北15町。東は七覚【しつかく】川を隔てて右左口【うばぐち】村,西は浅利村,南は木原村・上大鳥居村,北は笛吹川を隔てて巨摩【こま】郡乙黒村に接する。「国志」によれば,枝郷に角川・宇山があり,文化初年の戸数78・人口331(男162・女169),馬3。甲州街道石和【いさわ】宿および中道【なかみち】往還右左口宿の助郷を勤めた(中道町史)。北部・川沿いの低地では水稲,丘陵地では雑穀・芋類を栽培し,入会地では薪炭作りや堆肥用の草刈りを行った。笛吹川の水運を利用して市川・鰍沢【かじかざわ】方面との往来が多かった。寛文10年,下曽根村との間に堺争論があり,代官守屋喜右衛門・江原源右衛門の調停により済口証文が取り交わされた(中道町史)。神社は八幡宮・天満宮,寺院は曹洞宗浅利山法久寺などがある。明治4年山梨県に所属。同7年豊富村の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7336480