小坂(中世)

鎌倉期から見える地名。諏訪郡のうち。戦国期には郷名で見える。承久元年8月15日の諏訪十郷注文に「小坂〈三十丁・廿七間〉」とあり,当郷は田地30町,在家27宇があったというが(守矢文書/信史3),同文書は検討の余地があるといわれ,その頃当郷が諏訪社の境内郷の一つであったか否か定かでない。嘉暦4年の諏訪大宮造営目録によれば,諏訪社上社の大宮池廊3間の造営の所役が「小坂役所并北南駒沢」に課されている(信叢2)。その後この所役は当地と駒沢両所が引き継いで負担したらしく,天正6年の上諏訪造宮清書帳によると,上諏訪社大宮の池廊3間は「小坂之郷南北 駒沢」の所役であったが,近年退転したので,春芳軒宗富が造宮銭を募って建立したという(同前2)。また文安5年からほど遠くない頃に作成されたと思われる「年内神事次第旧記」によれば,4月の矢崎祭,5月の流鏑馬,7月の御射山,9月の秋庵などの神事にその所役を勤仕している(同前7)。応永4年1月1日の神使頭番役差定状案によれば,諏訪氏庶流小坂氏に対し,内県介を「小坂郷」に充て課している(守矢文書/信叢7)。「守矢満実書留」によると,応仁2年正月1日・文明12年正月1日の記事に「内県介小坂初当候」「内県介小坂代初」などとあり,小坂氏が内県介の神使頭を勤仕している(信叢7)。文明12年の神使頭に際して,2月6日・7日に悪党(諏訪社下社の祠官金刺氏の一党か)が乱入・放火し,西牧御精進屋以下が炎上した。7日の小坂の御頭祭の最中には,多数の死者を出している(同前)。年代は下るが,天正年間と推定される「諏訪上宮宮工事在家諸役註記」に「小坂之郷之分」として1貫32文を納入している(信史14)。武田氏滅亡後の天正10年と推定される7月7日の北条氏邦・氏照連署状によれば,諏訪郡の高島衆の使者として小田原北条氏の許に赴いた樋口杢左衛門尉の忠節を賞し,「小坂之郷」と諏訪塩尻の両所を宛行うことを約している(児玉文書/信史15)。ただし,同年10月26日の北条氏政宛行状によれば,樋口木工左衛門尉は甲斐の小井沢郷と諏訪塩尻を宛行われており,当地は見えない(同前)。なお当郷のほぼ中央部の山腹に小坂城跡があり,諏訪氏庶流小坂氏の居城であったという。さらに当郷には小坂鎮守という上諏訪社の末社があり,年未詳の十三所造宮に関する記録に下十三所のうちとして見え,その造営は「小坂郷之役」として行われた(諏叢26)。同鎮守は「小坂鎮守〈観音〉」(守矢文書/信史8),「小坂鎮守御台宮」などと見える(天正6年上諏訪造宮清書帳/信叢2)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7338506 |





