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小谷(中世)


 鎌倉期から見える地名。安曇【あずみ】郡のうち。於他里とも見え,戦国期には郷名でも見える。建久元年12月日の某下文に「六条院御領信乃国千国御庄内於他里・飯守所」とあり,平康家の請文に従い年貢布60反を弁済するよう命じている(新見文書/信史3)。当地は山深い地であるが,古くから麻の産地として知られていた。また古くから諏訪大社との関係が深く,長享2年の春秋宮造宮次第(信叢2),永禄8年2月吉日の常楽会頭役差定状(桃井文書/信史12),天正6年の下諏訪春宮造宮帳(信叢2)などに「小谷」が見える。永禄9年9月晦日の諏訪社下社造宮改帳などには,「仁科領之内以千国・小谷両郷」と郷名で見え,千国郷とともに記される(諏訪大社文書/信史12)。当地は弘治3年までは現在の大町市域を本拠とする仁科氏に属す小谷城(平倉城とも)主飯森氏によって支配されていたが,同年7月5日武田軍のため小谷城が落城した。この時の戦功に対する武田晴信の弘治3年7月11日付の感状が数通残っており,「去五日信州安富(曇)郡小谷地」での小平木工丞・岩波六左衛門・篠原藤十郎・小井弖藤四郎・岩波藤五郎・木村与右衛門らの戦功を賞している(小平文書・諸州古文書・小出文書・岩波文書・木曽考/同前12)。元亀2年6月12日の武田信玄過書に「小谷衆十八人」とあり,武田氏の支配下当地の武士は小谷衆と呼ばれていた(細野文書/同前13)。仁科盛信は天正6年2月12日等々力次右衛門に対し,「小谷筋」の荷物通過を許し(太田文書/同前14),同7年4月28日には倉科朝軌に「小谷池原・土屋ニ弐貫五百文」などを宛行い,翌8年4月20日には武田勝頼が朝軌に「一,小谷之内来馬寺分 壱貫五百文」などを安堵している(倉科文書/同前14)。天正10年3月武田氏が滅亡すると,上杉景勝は越後の根知城主西方房家に命じて当地へ侵攻させ,7月5日西方房家は当地を手中に納め,当地より上杉家重臣直江兼続宛に,「小谷之証人をば悉取申候」と報告している(上杉家文書/信史15)。同年11月2日上杉景勝は「小谷衆大所豊後」に千国城攻略の功を賞し(山田文書/同前15),11月12日には西方次郎右衛門尉に千国城攻略の感状を「小谷之者共へ」遣わしたことを伝えている(歴代古案/同前15)。翌年には小笠原貞慶の勢力下に入ったと考えられ,小笠原貞慶の臣赤沢式部少輔・古厩因幡守・塔原三河守らが謀反を企て,これらを誅罰した際の2月16日の小笠原貞慶書状案に「小谷ヘハ細萱をつかハし候」とあり,当地には細萱氏を派遣している(御書集/同前15)。同年3月3日には,貞慶が千国十人衆に千国跡職を与え,「小谷筋用心無油断事肝要也」と命じている(千国文書/同前16)。天正13年8月朔日貞慶は山田甚右衛門に「小谷之内拾五貫文」を宛行った(太田文書/同前16)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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