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島々村(近世)


江戸期~明治7年の村名安曇【あずみ】郡のうち梓川支流島々谷川の流域に位置する集落は両川の合流点(渡【ど】)に形成されている昔から洪水の被害が多く,洪水後に残る砂地(洲)を「しま」ともいうので,地名もこのことに由来するものと思われる松本藩領上野組に属する入4か村の一つ村高は,「慶長改帳」3石余,寛永19年の松本領村々高附帳(県史近世史料5-1)6石(畑方のみ),「正保書上」「元禄郷帳」ともに2石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに19石余慶安4年の検地帳によれば,反別は田1反余・畑3町9反余(うち麻畑3反),本百姓7・門百姓6,上納高8石余正徳4年上野組鑑によると,南西部に枝郷「もちうと」が見える幕末には養蚕が盛んになった当村は江戸初期から松本藩の御用杣村となっており,集落のすぐ近くまでが「お立て山」であったこのため当村は村方としては松本藩郡役所の支配に,杣村としては表勘定所山方の支配に属し,村役人の庄屋・組頭は杣頭としての元締役をも兼ねた村内に御用炭蔵があり,その隣りに「他屋」が置かれていたここには山手代が常駐し,間接的ながら御用杣らを監督した松本藩は毎年計画的に西山一帯の藩有林から諸木の伐出しを行ったはじめは多くの杣たちを直接支配する御手山仕法をとったが,のち村々の庄屋・組頭を元締に任命し,一括請負わせることになるこの領主が杣に扶持米と前金を渡して伐らせる方法をお仕入山といった御用杣は文久2年の調べによると,薪・榑木杣が本面杣・七分五厘杣・五分杣・二分五厘杣合わせて45人余,炭杣が夏焼き杣を合わせて22人,小白木杣が25人とあるこれを元締2人で2組に分けて統轄したなお,杣の賃銀は安かったそのかわり藩は村一般の窮乏の訴えによく応えており,御救い籾がたびたび放出された当村は他村に比べて伝馬役の負担が多かった(一部,大野田村も負担)近くの稲核【いねこき】村橋場には松本藩の西口の番所があり,ここの詰役人の交替には馬を曳いて出たし,乗鞍岳麓にある藩営の大樋銀山へ米などを牛によって付上げし,また,御用山事業の見分役人の送迎なども多かったそのかわりに当村にだけ官山での薪の伐出しが免許されていたこの島々木と呼ばれた御免木は約800間(1間は長さ2.5尺のものを牛房積みにして,横・縦ともに6尺に積んだもの)とされたこれは御用山が始まる前に山入りし,伐った木はそのまま山で乾かし,秋御用山が済んだのち川下げしたが,村内では階級によって各人の島々木の量が決まっていた神社は島々神社・竜神社がある明治4年松本県を経て筑摩県に所属明治初年の戸数81・人口388(県市町村合併誌)明治6年島々谷川沿いに温智学校(のちの安曇小学校)が開校明治期になってかつての藩有林は国有林となり,藩の事業としての林業は中止となり,かわって民間の山師が当地に入り込んで来たまた江戸期には松本の堀米渡場まで梓川を川下げしていた材木も,陸上輸送の発達により,当村まで川下げして,当村からは馬車で陸送されるようになるこのため当村は多くの地元山師の伐り出す薪・榑類の集積地となっていく明治7年安曇村の一部となる




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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