100辞書・辞典一括検索

JLogos

35

住吉荘(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える荘園名。安曇【あずみ】郡のうち。文治2年2月日の関東知行国乃貢未済荘々注文に「〈院御領〉住吉荘」と見え,当荘は後白河院領であった(吾妻鏡文治2年3月12日条/信史3)。建久2年10月日の長講堂領目録にも当荘が見え,元三雑事として御簾3間・御座5枚・3月御八講砂3両・廻御菜1日・門兵士3人などが賦課されている(島田文書/同前3)。同3年3月の後白河院庁下文案に「信濃国住吉庄〈同(院御領)〉」とあり,院の寵妃高階栄子の知行する当荘に対して,勅事・院事・国役と郡司以下の乱暴の停止を命じている(大徳寺文書/同前3)。年未詳6月11日の後小松上皇院宣によれば,「長講堂領住吉并五ケ庄」を伏見宮(栄仁親王か)に安堵すると伝えている(甘露寺文書/同前7)。一時的に伏見宮家領となったか。しかしその後,伏見宮家領としての当荘は見えず,応永14年3月日の長講堂領目録には,「信濃国住吉庄 山科入道中納言(教言)家 年貢白布三百段」と見え,当荘は山科家領となっている(八代恒治氏所蔵文書/同前7)。山科家関係の記録である「教言卿記」「山科家礼記」などに山科家領としての当荘のことが散見する。応永年間に年貢未進がすでにあり(教言卿記応永13年閏6月29日条/同前7),文明年間には山科家の当荘知行は,近年有名無実といわれている(山科家礼記文明9年10月3日条)。同年11月15日に後土御門天皇綸旨によって当荘に対する違乱を停止し,幕府の下知に従って当知行を安堵されている(歴代残闕日記所収重胤記/信史9)。同年と推定される11月4日の住吉荘・五ケ荘代官職預ケ請文案によると,当荘は戦国期においても京着年貢1,000貫文の在所といわれるほどの大荘であり,小笠原氏流一宮氏が代官職を請負っていた(山科家礼記文明9年11月4日条)。文明12年の山科家の不知行領所々のうちに当荘が見える(同前文明12年11月15日条)。鎌倉期の当荘地頭の名は不明であるが,西牧氏に推定する説もある。建武2年9月27日小笠原貞宗は勲功の賞として当荘などを足利尊氏から宛行われているが,これは当荘地頭職のことか(小笠原文書/信史5)。応永5年8月24日に小笠原長秀は当荘と春近領を幕府から返付されており(同前/同前7),その間に収公されていたらしい。その後応永22年12月5日小笠原長秀に,同25年9月9日同政康に当荘をそれぞれ返付する旨の足利義持御教書が下されている(同前)。当荘はおそらく守護領であったろう。長享2年の春秋宮造宮次第,天正6年の下諏訪春秋両宮造宮帳によれば,春宮の四の御柱造立の料足を当荘が負担している(信叢2)。また明応10年・天文18年・弘治元年・永禄4年・元亀4年・天正7年度の穂高社式年造営に際し,二階建ての御門屋一宇を当荘の所役として籾1石9斗・御幣紙19枚半を勤仕している(三宮穂高社御造宮定日記/信史10)。永禄8年11月,武田信玄は諏訪社上下社の祭礼を再興するが,翌年9月晦日の武田信玄の証判のある諏訪社下社造宮改帳に「住吉為十八郷之役,四之御柱立来処ニ」とあり,当荘は18か郷から構成されていたらしい(諏訪大社文書/同前12)。この18か郷は諸史料によって若干異なるが,天正6年の下諏訪春秋両宮造営帳(信叢2),明応10年の三宮穂高社御造宮定日記(信史10),天正7年の下宮春宮(信叢2)などに見える。下諏訪春秋両宮造宮帳によれば,文明8年度の下諏訪春宮四之御柱の造立に際して「住吉郷(庄)」の所々は,大妻南方・同北方・横沢・長尾上方・二木・戸間・真々部・飯田・中曽禰・熊倉・角陰北方・角陰南方・冰室・及木・成合・寺所・杏・中萱などである。天正7年度の場合丹連村(明応10年度では楡村と記す)があり,長尾が上方となっていない。明応10年度には唐笠木(現豊科町)と久木が見えるが横沢は見えない。永禄11年11月23日,信玄は塩原三郎右衛門尉以下に本領の替地として宛行っている(平林文書/信史13)。当荘域には小笠原氏被官が蟠踞しており,天文17年以後武田氏に抗した二木氏は隣接する西牧氏とともに没落したが,同23年に許され二木豊後守は当荘への還住をはたしたという(二木家記/同前12)。武田氏滅亡後の天正10年3月14日二木豊後守(重吉)は小笠原貞慶から本貫の地「二木之郷三百貫之地」を宛行われていた(御証文集/同前15)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7339972