立石村(近世)

江戸期~明治8年の村名。伊那郡のうち。はじめ旗本宮崎氏領,元和5年からは旗本近藤氏領。近藤重尭は甲賀城跡に陣屋を構えた。村高は,「天正高帳」527石余,「正保知行付」528石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに525石余。年次不詳5月の知行所村々人数改書上(県史近世史料4-1)に,立石分村(立石寺領)が男11・女6,立石村が男128・女98,ほか僧2とある。江戸初期から串柿が特産物となり,天竜川通船によって水路江戸へ積み出された。立石柿と称し(本朝食鑑),将軍の歯固めとして宣伝された。その出荷量は,隣接の伊豆木・下瀬両村を含めて3,000重といわれる。真言宗の古刹千頭山立石寺は,天安元年の創立,本尊十一面観音は柿と結びついて柿観音と別称される。なお慶安2年寺領10石の朱印を与えられている。集落の東西に植えられた杉は,日本武尊東征の際のお手植えと伝え,そのうちの1本,雄杉は樹齢1,000年,高さ52m,昭和43年県天然記念物に指定。神社は木船社。その朱印高3石。明治2年伊那県,同4年筑摩県に所属。明治6年の戸数97・人口484(県市町村合併誌)。同年26名の寺子屋がそのまま菊水小学校として開設されたが,翌年厳木小学校支校として貴船社地に校舎を新設(小学校沿革史)。同8年三綱村の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7340238 |