遠山荘(中世)

鎌倉期に見える荘園名。伊那郡のうち。江儀遠山荘とも見える。また戦国期には遠山郷と見える。「吾妻鏡」文治2年3月12日条所収の同年2月日の関東知行国乃貢未済荘々注文に「江儀遠山庄」と見える(信史3)。当荘の荘園領主・地頭らについては,「鶴岡八幡宮寺供僧次第」の悉覚坊仲円の項に「於八幡宮右大将家為御代,長日仁王法花等勤之,料所信州遠山庄,平家一門也,北条遠江守時政申沙汰之」とあり,仲円は源頼朝の代に長日仁王法花などの法会を鶴岡八幡宮で勤めたが,その料所は当荘で,北条時政が沙汰しており,地頭は時政であったかと推定される(続群4下)。また同書の蓮華坊勝円の項にも「又於八幡宮為右大将家御代官,法花経仁王経勤之,料所信州遠山庄」とある。嘉暦4年3月目の鎌倉幕府下知状案に「二番五月会分……流鏑馬,赤須・遠山・甲斐治(沼)・鹿塩地頭等」と見える(守矢文書/信史5)。荘域は現在の上村・南信濃村一帯と推定される。以後しばらく史料がないが,戦国末期になって天正3年と推定される9月2日の長坂虎房書状案によれば,織田信長方についた知久頼氏らを天野安芸守の斡旋によって許しているが,その中に「遠山江可乱入之趣被申付候処」とある(天野文書/同前補遺上)。天正6年2月14日の武田勝頼造宮手形によれば,宛所に「遠山之郷代官」とあり,当郷に対し諏訪造宮勤仕を命じている(諏訪文書/同前14)。同年の上諏訪大宮造宮清書帳に「一,瑞籬三間 遠山郷 取手 粟沢藤兵衛 合三貫文 代官 不知」とある(信叢2)。同9年5月9日徳川家康は「於信州遠山領にて千貫文出置候,此内百貫文ハはつ田寅介・和泉・仁兵衛付尤も儀候間,彼三人ニ出置候」とあり,奥山惣十郎に当領内の地を宛行っている(萩原文書/信史15)。和田城主遠山景広は天文22年武田氏に従い,武田氏滅亡後は遠山景直が徳川家康に従って,一時は遠山をはじめ遠江国北部・大鹿・部奈・福与・上穂・箕輪福島などを領有したという(南信濃村史)。和田城は,景広・景直・景重3代の居城で,盛平山山麓の台地上にあり,その下段に尾屋敷・殿町・桜門前・的場などの地名が残り,城下町があったと考えられている。現在和田城跡には遠山氏の菩提寺竜淵寺がある。遠山谷にはこのほか,遠山氏一族の居城程野城(現上村),中根城・熊野城・木沢城・長山城・大町城・八重河内城(以上現南信濃村),満島城(現天竜村)などの支城や高平館・十原館・尾野島館(以上現南信濃村)が点在していた。このうち名古山の長山城は最大の城で,遠山氏最初の居城であった(下伊那史)。遠山谷内の各神社では,毎年国重要無形民俗文化財指定の遠山霜月祭りが行われ,これは伊勢神宮の湯立神楽の系統を引くもので,この神楽に改易された遠山氏一族の怨霊を鎮める儀式を加えた祭りである。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7340396 |