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富倉村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。水内郡のうち。はじめ森忠政領,慶長8年からは飯山藩領。村高は,「慶長打立帳」では富蔵村と見え36石余,「正保書上」も36石余,「元禄郷帳」も36石余でほかに当村枝郷濁川新田村42石余があり,「天保郷帳」には古くは濁川新田村と当村の2か村と記し211石余,「旧高旧領」も同高。宝永13年は本高36石余・新田高175石余(柳原村誌)。元禄年間から宝永年間に新田畑の開発が進んだ。正徳元年の戸数73・人口863,馬54匹で,口留番所が置かれ村民が昼1人・夜3人で交代して警護にあたり,同番所の設置・運営のため諸役免除となっている(村指出帳/柳原村誌)。江戸期の富倉峠は越後と奥信濃との交通路として重要であり,越後からの塩・魚などの海産物の流入路として利用されたが,明和3年越後国頸城【くびき】郡長沢村と当村の間で人馬継立の争論が起こっている。村内を通る富倉街道は粘土質で水を含むと人々の歩行にも支障をきたすほどぬかるため,村内をはじめ沿道の村々・飯山城下・越後の長沢村などから寄附を募り,安政4年から慶応3年にかけて約1里の長さに割石を敷いた(柳原村誌)。明治4年飯山県を経て長野県に所属。明治初期には米283石余・大豆40石余・稗27石余・蕎麦11石余を生産し,石炭油15石を産出,また和紙原料である楮皮175貫・菅座600枚を飯山町へ,葛粉2,400貫を越後の高田へ出荷している(県町村誌)。明治10年富倉峠の堀割が完成し,以後は関屋を経て松田川に沿って当地に入る道が利用されるようになった。同21年の戸数187・人口1,178,田75町余・畑103町余・山林35町余・原野99町余。同22年柳原村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7340484