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長久保新町(近世)


 江戸期~明治22年の村名。小県【ちいさがた】郡のうち。寛永7年依田川の洪水に伴う新町割を契機に,小諸藩による検地が行われ,長窪村が長久保新町と長窪古町に分かれた。中山道の長久保宿を長久保新町と称した(上田小県誌)。はじめ小諸藩領,寛文元年甲府藩領,元禄14年から幕府領。分村後,寛永14年の村高は726石余,宝永7年に816石余となっている。「旧高旧領」では長窪新町と記され1,000石余。戸口は延宝3年97戸,正徳6年191戸・922人,寛延3年215戸・904人,宝暦8年188戸・966人,安永10年185戸・876人(同前)。寛永7年下河原から大沢山口へ移った宿場は,L字形で,東西に堅町が3町45間,南北に横町が3町7間,本陣・脇本陣・問屋は堅町に置かれ,横町には旅籠屋が多く軒を並べた。常備人馬は50人・50匹で,うち人足12・馬12は長窪古町の宿役と定められ,不足時は12か村から助郷の人馬を徴収した。享和元年の宿方明細帳によれば,問屋場は2か所あり,1か月を上下半月交代で勤め,旅籠数40軒,峠道に備えて宿泊者が多かった。飯盛女は,安永9年の問屋日記に,7月,はじめて飯盛女3人が来たと見え,以降,文化8年には21人,万延2年には67人も抱えられていた(同前)。なお旧本陣石合家住宅は中山道旧本陣中最古の建築である。松尾神社は,弘治3年社殿大破により再建されたと伝え,安政5年立川和四郎によって再々建された。寺院には,安永6年洪水の災を受けて現在地に移った観音寺がある。また長安寺もあり,その経蔵は江戸末期の建立と推定され明治4年の火災の難をのがれ,回転式八角輪蔵を収納している。明治元年伊那県,同3年中野県を経て,同4年長野県に所属。同8年調の田81町余・畑51町余・宅地7町余,同10年頃の戸数214・人数813,生産物に鶏卵7,200顆・繭78石余・生糸上30貫・清酒300石などがある(県町村誌)。同22年市制町村制施行による長久保新町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7340552