100辞書・辞典一括検索

JLogos

29

蓮村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。水内郡のうち。はじめ森忠政領,慶長8年からは飯山藩領。村高は,「慶長打立帳」477石余,「正保書上」490石余,「元禄郷帳」では490石余でほかに当村枝郷として堀越新田村11石余・柳久保新田村14石余・南禅寺新田村16石余・茂右衛門新田村90石余・五位野新田村59石余の5か村を別記し,「天保郷帳」では古くは当村と前記の新田村5か村の計6か村と記し,1,275石余,「旧高旧領」でも同高。堀越新田は正保4年の検地帳に名請人2名が記載され高8石余。柳久保新田は元禄8年の検地帳では田4反余・畑2町7反余。南禅寺新田は寛文6年の開発で(寛文9年南禅寺新田田畑検地帳),同9年の検地で田畑高合計16石余。茂右衛門新田は丸山茂右衛門・弟の市左衛門が開発者で慶長17年または元和3年の開発と考えられる(秋津村誌)。茂右衛門新田の村高は寛文2年90石余,同10年24石余増加し元禄8年119石余(同前)。五位野新田は慶安4年の検地帳によれば名寄人11人・村高51石余。いずれの新田村においても畑地の占める割合が大きいのは主として用水の便の悪いことが原因であり,本村においても藩主松平遠江守により野田喜左衛門の設計監督によって貞享3年ないし元禄年間に竣工した蓮堰によって水田が増加していったと考えられる(同前)。明治4年飯山県を経て長野県に所属。同12年下水内郡に属す。従来の船渡しに代わり,明治9年腰巻橋が架橋された。明治初期の主な物産は,米780石・大麦135石余・大豆41石余・菜種50石余・繭120貫(県町村誌)。明治21年の戸数226・人口1,345(県市町村合併誌)。同22年秋津村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7341012