保福寺町村(近世)

江戸期~明治8年の村名。筑摩郡のうち。保福寺村ともいった。はじめ松本藩領,享保10年からは幕府領(寛保3年以降は松本藩領預り地)。会田組に属する。村高は,「慶長改帳」では保福寺村と見え405石余,「正保書上」でも保福寺村と見え165石余,「元禄郷帳」でも165石余,「天保郷帳」257石余,「旧高旧領」では保福寺村と見え255石余。南は七嵐峠を越えて松本城下(松本市),東は保福寺峠を越えて小県郡上田城下(上田市)に至る街道が村内を通っており,戦国期の保福寺城下に江戸期になって保福寺宿が置かれた。慶長19年松本藩主小笠原秀政から宿場法度定書が下されており(小沢家文書),当時すでに宿町が形成され,問屋が設置されていた。同年伝馬掟も出され,伝馬役も課された。宿の家数31(両角家文書),うち本役18・半役7・無役6。保福寺峠に向かう江戸道の守備のため,寛永10年宿の東端に松本藩によって口留番所が設置された。戦国期に押ケ沢で鉛鉱山が発見され,のち元和元年には丸山沢の行人平でも鉛鉱山が発見された。同3年には同地が金山町村として分村し,苅谷原村の一部(反町【そりまち】村・殿野入村・赤怒田【あかんた】村)とともに幕府領に編入され,直轄の鉱山として採掘が始まった。産出の全盛期は寛永9~11年で3,000~4,000貫の運上鉛が納入されている。また,鉱山維持のために赤怒田・反町両村に御金山料が課せられたが,同15年には廃鉱となる。慶安4年の検地によれば,高165石余,反別は田7町5反余・畑16町9反余,百姓71軒であった。また,漆役も負担した。寺院は,文永5年大覚禅印の創建という曹洞宗永安山保福寺がある。明治2年口留番所が廃止された。同年伊那県,同4年筑摩県に所属。同8年刈谷原村の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7341461 |