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薮原村(近世)


 江戸期~明治7年の村名。筑摩郡のうち。薮原宿・薮原町とも書いた。「前田慶次道中日記」慶長6年11月2日条には「やこ原・よし田,とりゐ峠を下れハならゐの町」とあり(信叢10),当時「やごはら」とも称されたことがわかる。はじめ幕府領,元和元年からは尾張藩領。村高は無高(元禄郷帳・天保郷帳)で,年貢米などで示されており,「慶長御成箇帳」米45石余・山手米10石・榑6,000丁,「享保書上」米69石余,「旧高旧領」では197町2反4畝11歩と見える。なお,宝暦9年木曽山御材木仕法留書によれば,享年9年から榑・土居の御年貢木は廃止された。中山道の上4宿の一つ薮原宿をもち薮原在郷と区別された。延宝2年の人数885人(宗門改帳),享保12年家数302軒・人数1,632(岐蘇古今沿革志),天保9年家数378軒・人数2,009(木曽巡行記)。宿は,中山道木曽路の難所鳥居峠を控え,また,飛騨高山へ通ずる飛騨街道奈川道の分岐点にあたる宿として,規模の上からも流通の上からも,奈良井宿・福島宿と並び栄えていた。宿のはずれの鳥居峠には藩の御鷹匠役所があった。古くから木地・曲物など木材加工業が盛んであったが,特に江戸後期には木曽名産お六櫛の産地として知られた。弘化5年には,全家数429のうち,櫛引き239軒を数え,櫛関係の仕事に従事する者が3分の2を占める木櫛の宿であった。天保14年の様子を記す中山道宿村大概帳によれば,江戸へ65里35町14間・奈良井宿へ1里13町・宮越宿へ1里33町,宿内町並み南北5町25間,宿内家数266・人数1,493(男706・女787),本陣1(上町建坪270)・脇本陣1(中町建坪104),旅籠10(大1・中3・小6),人馬継門屋2(本町と中町),問屋2・年寄3・帳付3・馬指2・人足扱2,宿建人馬25人・25疋。寺社は,宿を見下ろす高台に熊野大神宮(薮原神社),隣接して臨済宗極楽寺,ほかに十王堂があった。明治4年名古屋県,伊那県を経て筑摩県に所属。同7年木祖村の一部となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7341982