山田郷(中世)

南北朝期~戦国期に見える郷名。高井郡東条荘のうち。鎌倉末期以降高梨定仏の娘源氏が弟の忠保と在家・田畠の所有をめぐって争い,建武5年3月18日高梨一族が合議のうえ「相論信州東条庄山田郷小馬場村内宗二郎入道在家田畠事」について裁決し,源氏女の代高梨時綱に領知させることになった(高梨文書/信史補遺上)。以後,当郷は高梨氏の分家山田高梨氏の支配下に置かれたが,文明16年5月山田城は城主高梨高朝が高野山参詣の留守中,本家の高梨政盛に攻略され(諏訪御符礼之古書/信叢2),当郷は高梨惣領家の支配下に入った。下って川中島合戦の際の弘治3年2月12日,武田晴信は原(山田)左京亮を通して「山田領之貴賎」に対し早期降服を呼びかけ,同年2月17日それに応じた左京亮に対し本領を安堵し新恩地を与えた(諸家古案集/信史補遺上)。原左京亮は当時高梨氏の配下で当郷の最も有力な土豪であったが,同年4月21日越後の長尾景虎が色部勝長に出陣を促した書状の中で,越後勢は善光寺に兵を進め,「山田之要害」と福島城を鎮定したことを報じている(色部文書/同前12)。ここに見える山田の要害とは桝形城のことと考えられ,そのふもとにある曹洞宗真法寺は原氏の居館跡とされている。当郷城は,南は松川の深い谷,北は三沢山系に挟まれた渓谷で,東は上州境に至り,西の小布施地域へは雁田山を越える山道が唯一の交通路であった。この道は鎌倉道と呼ばれていた。中山田と奥山田は平塩山の尾根で隔てられ,山田郷全体が天然の要害であった。下って諏訪社上社への天正6年分の頭役料未進地として「一,山田郷 仁貫文〈上八百文〉」と見える(御頭書/同前14)。郷内に天正の初め頃下総の関宿から浄土真宗常敬寺が移されるが,これは郷内中山田の平塩にあったらしい。天正5年織田信長と争っていた石山本願寺へ信濃の末寺門徒が兵糧を送ったが,同年と推定される10月10日の下間頼竜書状案に「弐拾俵 常敬寺門徒中」と書かれている(勝善寺文書/同前14)。常敬寺は近世初頭越後高田へ移ったが,同寺所蔵の文禄3年4月15日の年紀を有する蓮如上人真影の裏書には「高井郡栗原庄山田郷□□(中戸)山常敬寺常住物也」と記されている(常敬寺文書/同前17)。郷域は江戸期の中山田村・駒場村・奥山田村にあたると推定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7342015 |