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夜交村(中世)


 南北朝期~戦国期に見える村名。高井郡上条郡のうち。戦国期には夜交郷と見える。明徳3年3月日の高梨朝高言上状案に「北笠原上条郷内夜交付」とある(高梨文書/信叢2)。当村は正平7年朝高の祖父経頼が幕府より拝領したが,当時高梨氏に背いた中野弥六の支配するところとなっていたため,朝高が幕府の安堵を求めたもの。この中野氏がのちには夜交氏を称した。下って天正6年の上諏訪大宮造宮清書帳に「一,瑞籬三間 役銭之次第 夜交之郷 取手諏訪伊豆守 合弐貫文 代官不知」と見える(信叢2)。同8年閏3月23日武田勝頼は夜交左近丞に岩船郷の替地として「夜交之内山脇分廿貫,当所務弐十八俵之所」を渡し付け,同9年8月28日には平林宗忠らが検注,同年10月19日勝頼は夜交左近丞にその知行地「夜交之郷」242俵1斗6升の検地増分を預け置いている。武田氏滅亡後の天正10年6月16日上杉景勝が夜交左近助に対し「夜交之郷」「うき」など4か所の地を宛行った(以上,世間瀬文書/信史14・15)。下って上杉景勝への文禄3年11月20日の夜交昌国知行差出案および同じ頃の年未詳夜左近助知行差出案に「夜交之村」とあり,石高は前者が477石余,後者は「うき之村」「よこくら之村」を合わせて491石余であった(同前/同前18)。「うき」は夜間瀬の小字宇木前,「よこくら」は同じく小字横倉が遺称地である。なお地内本郷には南北朝期以降につくられた夜交氏城館跡があり,横倉の小高い丘には城山と呼ばれる山城跡がある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7342185