揖斐荘(中世)

鎌倉期~室町期に見える荘園名。大野郡のうち。建長5年の近衛家所領目録に初見(近衛家文書)。一乗院前大僧正実信相伝の荘園の1つで,以後一乗院領。南北朝期には荘内はいくつかの保に分かれていた。観応2年「世上動乱」と「二月中之大洪水」により,荘内疲弊していたが,預所は軍勢の乱妨狼藉を放置しておきながら,年貢のみは厳しく徴収したという。そのため同年3月荘内北方・南方・三和(輪)3か保の百姓等は一乗院に言上状を捧げ,預所の非法を訴え,年貢減免と新井掘削のための預料足の下行,三和保本井料田の給付を要求している(興福寺別当次第重文書)。一方,当荘は守護土岐頼康の弟頼雄の拠点となり,頼雄の子孫は揖斐氏を名乗った。頼雄(祐康)は慶安2年・貞治5年・永和元年と荘内大興寺に寺領を寄進,永和元年寄進分には「揖斐庄四ケ保散在田畠」「同庄内三輪保犬丸名」とあり(大興寺文書・前田家所蔵文書),嘉慶3年足利義満の安堵を得た(早稲田大学荻野研究室所蔵文書・集古文書)。また応永25年には「大野郡内深坂保并六里郷等」が土岐治郎少輔入道祐円に沙汰付けられており(瑞巌寺文書),文明4年には土岐深坂松寿丸領「揖斐庄深坂保地頭職」等が守護役免除,守護不入地とされた(前田家所蔵文書)。これらの郷名は,それぞれ現在の揖斐川町北方・同上南方・同三輪・谷汲【たにぐみ】村深坂に引き継がれている。なお「美濃明細記」に「揖斐北の山に井戸・石垣崩れあり,土居も残れり,住居は麓の長源寺やしき居之」と伝える揖斐城に拠った土岐揖斐氏は,土岐一族のうちでも有力庶家に成長,戦国期には土岐頼芸の弟五郎光親が揖斐氏の名跡を継ぎ,斎藤道三と戦っている。その後同城には天正期に堀池氏が拠って城下町を経営,久瀬川の水害から町を守る堤も築いたと伝え,関ケ原の戦後には西尾光教が3万5,000石を領して在城した(揖斐川町史)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7342706 |