上有智荘(古代)

平安末期から見える荘園名。美濃国武儀【むぎ】郡のうち。初見は「兵範記」仁安3年2月巻裏文書の長寛元年美濃国諸荘未進注文で,「上有知内絹三十疋」とあり(陽明文庫所蔵文書),建長5年の近衛家所領目録には京極殿(藤原師実)領の1つとして「上有智庄」が見える(近衛家文書)。鎌倉初期には当地を名字に冠する美濃源氏の一流がおり,嘉禎元年上有智頼保が矢野盛重から,播磨国矢野荘例名下司職を譲られている(海老名文書)。頼保は山県頼清の孫,上有智頼資の子で,一族には飛騨瀬【ひだせ】・蜂屋【はちや】等の諸氏がいた。一方,常陸佐竹氏の一族は鎌倉初期美濃に数か所の所領を有し,「尊卑分脈」によれば,佐竹季義の子公清は上有智を相伝,上有智と号したという。その後,美濃の佐竹氏は南北朝期初頭に一族分裂,建武3年6月11日の足利尊氏袖判下文で佐竹義基に「美乃国山口郷東・西 同国上有知庄上・下 弾正庄」が宛行われた(彰考館文庫所蔵文書)。また同年8月27日には「上有智庄北方」の知行が猪熊前宰相中将に安堵されており(下郷佐平氏所蔵文書),貞和4年・観応元年には「上有智庄各別名」「上有智庄北方各別名内曽田井郷」の領家が勘解由小路兼綱,本家が金蓮華院であったことが知られる(柳原家所蔵文書)。なお「吾妻鏡」治承4年10月19日条によれば,同年8月の源頼朝挙兵に際し,京より関東へ向かった加々美長清は路次に発病,「美濃国神地辺」で一両月休息したという。この神地とは当地のことか。その後,戦国期の天正年間,当地方の土豪佐藤清信が地内鉈尾【なだお】山に拠り,山頂に砦,山下の長良川畔に居館を営んだ(上有知城・鉈尾山城)。2代秀方は武儀郡の大半を領する有力大名となったが,3代方政は関ケ原の戦で岐阜城主織田秀信に味方して西軍に属し,岐阜城の戦に敗れて滅亡,戦後佐藤領を加封された金森長近は上有知城を廃し,慶長5年に小倉山城を築いた。以後慶長16年まで金森長近・長光が在城。この間水害を逃れるため長良川沿岸の集落を台地上に移し,新しく城下町が形成された。長光の死後は幕府領に収公され,石原清左衛門支配地となったが,元和元年からは尾張藩領となった。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7344190 |